MODANIZATION HERITAGE ON SANJO STREET, KYOTO
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
昨年、東京駅舎の復刻で明治の日本人が国際社会で示そうとした和魂洋才の気概が見直された。
こうした近代の西洋建築は京都でも見られ、なかでも、三条通を烏丸交差点から東に向かう界隈は、明治、大正、昭和にかけて建てられたビルが、和の町屋とともに密集する地区として注目されている。
烏丸三条の交差点から、片側一車線のせまい三条通を東に進むと、最初に中京郵便局の赤煉瓦の建物が見えてくる。英国調を基調にした典型的な明治の西洋建築で、表情には長年使い込まれた風格がある。
続いて現れる赤煉瓦建築は、日本の西洋建築の礎を築き、東京駅舎の設計者辰野金吾が手がけた旧日本銀行京都支店である。辰野金吾の辰野式と呼ばれる赤煉瓦建築のことは、本サイトでも何度か紹介してきた。今回京都の建物を見て改めて感心するのは、全国で手がけた建物の基本設計はほとんど同じながら、細部のデザインはそれぞれ異なることだ。
装飾部品は同じ物を使い回さないので、一件づつデザインをおこすカスタムメイドのような作り方である。このビルの随所に見られる円形を組み合わせた意匠はこのビル独特のもので、無機質になりがちなビルに、人の手と心づかいを感じさせるアクセントになっている。
赤煉瓦の重厚な建物が続いたあとで現れる足袋屋は、明治の英国気分を一気に江戸時代の京都へ引き戻す。町に手仕事職人がたくさんいた時代を感じさせる風情である。
無彩色の幾何学装飾が特徴のアールデコ調建築が2件続く。
旧日本生命京都支店は前述の旧日本銀行京都支店の赤煉瓦建築の設計と同じ辰野金吾が手がけたもので、東京駅舎の開業と同じ年に完成している。大正時代になると、建築デザインの流行はこのアールデコ調に移行して、赤煉瓦の英国調は、すでに古いトレンドとされていた。
辰野金吾もそのことを理解していたが、東京駅舎のデザインには最先端のアールデコ調を使わず、当時の丸の内の赤煉瓦ビル街と調和を保つために、あえて英国調を採用した。
こちらもアールデコ調のモダンなビル。ロボットのように精緻な幾何学模様の連続は、今見ても完成度が高い。現在はテナントビルとして、衣料品や雑貨の店舖が入居する。
「日昇別荘」の年季の入った入り口が、大正時代のニューヨーク気分を、一気に江戸時代の京都まで引き戻す。
もとは、江戸時代に陶器の製造をしていた豪商の屋敷を改装したもの。温泉旅館のように大きな屋根の広い玄関ではないところが、いかにも町中のお屋敷をそのまま生かしているという風情である。
再び明治時代の赤煉瓦建築が現れる。時計店の創業者がドイツから建材を輸入して建てた建物。当時、明治政府は欧米と同じ太陽暦を採用して、1886年(明治19年)に日本の標準時を制定したので、一般家庭や公共施設、工場、企業などで洋式時計の需要が一気に増え、時計業者は景気が良かった。
競合も多かったので、自店をアピールするための造作には鼻息が荒かったのであろう。鋭角な模様を3スパンのアーチで繰り返す押しの強いデザインに気合いが感じられる。ほかの三条通りの建物が欧米のデザインを忠実に再現する正統派が多いなかで異彩を放つ。店舖の運営は長い年月のあいだに消費が変化して、時計だけでは売り上げが厳しくなったらしく、貸し店舗にしていた。
アールデコ調の流行は1931年にニューヨークでエンパイヤ・ステートビルディングが
開業する頃がピークとなる。その3年前に作られたこの旧毎日新聞京都支局ビルもアールデコ調の直線的な装飾が見られ、バルコニーには毎日新聞社章のデザインが使われた。現在は小劇場を中心とするアートスペースとして活用されている。
三条通は、江戸の頃から明治の初期にかけて栄え、金融機関や商業施設がこぞって西洋建築のビルを建てた。やがて、今から百年ほど前の1912年(明治45年)に、四条通や烏丸通が拡張されると、経済の中心はこの広い通りに移り、次々とガラス張りのモダンな高層ビルが建てられた。
かくて、開発の手が伸びなかった三条通には、古い建物が残ったのである。