Trip To Movie Locations : Otsu, Shiga Prefecture
写真・エッセイ/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画監督・小津安二郎の足跡をたどる旅のエッセイ。今回は滋賀県の大津市で、江戸情緒が残る街並みをめぐりました。
大津市にある瀬田唐橋は、小津映画『早春』(1956年)のロケ地として使われた。
小津監督がなぜこの橋を選んだのか。大津市にある映画ゆかりの地を訪ねながら、想いを巡らせた。
1. 堅田の街並み
堅田のシンボル浮御堂
映画監督・溝口健二(1898-1956)は小津監督より5歳年上。東京生まれだが、関東大震災以降、仕事の拠点を京都に移した。監督としての活動期間は小津監督とほぼ同じで仲が良かった。
小津監督は他の映画監督が使うロケ地を使わない傾向があった。遠慮もあったし、二番煎じのように思われるのも気に入らなかったのであろう。
このため、溝口健二をはじめ、多くの監督がロケ地に使った京都や琵琶湖をロケに使うことは稀だった。こうした背景から瀬田唐橋という渋いロケ地に目を付けたのではなかろうか。
溝口監督は映画『近松物語』(1954年)で、大津市の浮御堂をロケ地に使った。江戸時代を舞台に、京都の老舗商店で不倫疑惑をかけられた男女が夜中に逃亡するシーンで、浮御堂を不気味に映した背景が秀逸である。さすがに琵琶湖周辺を知り尽くした溝口監督だけあり、ロケ地選びの上手さを感じた。
撮影は合成ではなく、昔ながらの実写で、夕暮れ時を狙い、湖の中に立てたイントレから照明を当てる大掛かりなものだが、映画の中ではほんの数秒のワンカットという贅沢な撮影だった。
浮御堂は撮影当時と変わらぬ姿で残るが、湖畔は護岸で整備され、映画よりもきれいになっている。
時代劇の舞台を回想
浮御堂で知られる堅田の街は江戸時代、湖上交通の要衝として栄えた。
映画『近松物語』では、店の主人が逃亡者を捕らえるために、番頭を堅田に派遣する場面もある。
主人は番頭に「お前、すぐに堅田へ行け!」と言って指示を出す。あえてセリフに地名を盛り込み、リアリティーを出していた。
今でも堅田の街には、時代劇の舞台を想わせる面影が残っていた。
2. びわこ大津館
往年の映画スターの追体験
びわ湖大津館は1934(昭和9年)、外国人観光客を誘致する琵琶湖ホテルとして建てられた。和風の外観と洋風の内観が特徴で、歌舞伎座を手がけた岡田建築事務所が設計した。
ホテル時代には、滋賀県の迎賓館として皇族貴族やジョン・ウエインなどの映画スターが利用した。
1998年にホテルが浜大津に新築移転することになると、この建物は大津市が保存、改修して、2002年に貸ホールやレストランなどが入居する複合商業施設「びわ湖大津館」としてオープンした。
館内では、レトロな洋風建築を堪能することができる。ジョン・ウエインになったつもりで見ると、それなりの風格に見え、優雅な気分になるから面白い。
3. 旧東海道
江戸の旅人気分で町家めぐり
東海道は京都と東国を結ぶ平安時代以来の幹線道路である。江戸時代には国内一の幹線道路となり、53カ所の宿場が設けられ、大津は53番目の宿場町として栄えた。
明治時代になると、新たな幹線として国道1号線が整備された。大津では、旧東海道と離れた場所に国道1号線が通ったことから、旧東海道はそのまま残った。空襲の被害も少なく、江戸時代や明治時代に建てられた町家が点在している。
そんな旧東海道を、大津市中央4丁目あたりから京都のある西の方角に1kmほど歩いた。車の往来は少なく、昔ながらの商店に寄りながら歩くと、江戸の旅人気分を感じた。
4. 大津の料理と地酒
地元の味をレトロな空間で楽しむ
大津で立ち寄った飲食店では、さば寿しや琵琶湖の魚介類を使った郷土料理を中心に、滋賀県産の肉を使った料理でボリューム感を加えて味わった。
地酒は江戸時代に創業した蔵元の純米酒を合わせ、素朴さの中に感じる繊細な味わいを堪能した。
時間がゆっくり感じるレトロな店内は、優しく穏やかで、心地よい空間が広がっていた。
◆鯖街道 花折 工房
◆志じみ茶屋 湖舟
◆旬遊あゆら
◆平井商店
◆らーめん みふく
◆珈琲専門店 サモワール
4. 瀬田唐橋
小津監督のまなざし
小津監督は映画『早春』の中で、瀬田唐橋を重要な場面のロケ地に使った。
この映画はサラリーマン物で、丸の内に本社がある煉瓦メーカーが軸になっている。
池部良演じる若手社員は、岡山県三石にある煉瓦工場に転勤を命じられ、引越しの途中で、笠智衆演じる滋賀県の大津支店に転勤した先輩を訪ねる。
笠智衆は池部良を瀬田唐橋に連れて行き、瀬田川を眺めながらサラリーマン人生を語る。
「奥さんを大事にしてやれよ。俺もこの頃はカミさんには親切なんだ。やっぱり女房が一番あてになるんじゃないかな。いざとなると会社なんて冷たいものだ。俺なんかそろそろ先が見えてきたせいか、この頃はことさら思う」
(そこに、ボート競技の練習をする学生のボートが通過する)
「あの時分が、一番いい時だな。人生の春だね」
小津監督が『早春』のタイトルに込めた想いは人生の春、いわば青春である。それを主題にシナリオを書き、笠智衆に語らせ、ロケ地を選んだ。
とはいえ、青春映画ではなく、社会人になると仕事や人間関係にもまれ、青春時代を懐かしく思うが、戻れない悲哀が主題であった。
そんなサラリーマンの悩みをリセットする場面に、雄大な姿でたたずむ瀬田唐橋が見事な効果になった。
ロケ地選定の背景
小津監督は映画『東京物語』(1953年)の広島県尾道市のロケを終えた後、東海道本線を使って帰京した。
この時、小津監督が車窓から見た、岡山県三石の煉瓦工場が『早春』に登場する煉瓦工場のモデルとロケ地になった。同じ列車から見た、琵琶湖や瀬田唐橋も創作のヒントにしたのであろう。
瀬田唐橋のようなアーチ型の橋は、小津監督が好きだった広重の浮世絵に多く登場することや、近くにあったボートの練習場から着想を広げたと思われる。
瀬田唐橋は古代より京都に至る交通の要所であった。1924年にそれまでの木造から鉄筋コンクリート製に建て替えられた。小津監督が撮影した橋はこのタイプで、今もほとんど変わらない姿で残っている。
好天に恵まれた撮影日誌
1955年9月12日、小津監督一行は昼過ぎに京都に着いた。翌日は台風の予報で、撮影は休みと思い込んだ小津監督は仲間と酒を大いに飲んだ。
1955年9月13日、台風は通過して朝から快晴。この機を逃すまいと、小津監督一行は二日酔いながら、京都の宿から瀬田唐橋に向かう。午前中にカメラのアングルを決め、午後から池部良と笠智衆を呼び、瀬田唐橋の全カットを撮り終えた。
小津監督のアングル
映画『早春』に映る瀬田唐橋を現地で検証すると、撮影ポイントは唐橋西詰の河川敷南側であった。
橋の下を通過するボートは、あらかじめ依頼してあったという。遠くに映る東海道本線もあらかじめ通過時刻を調べて撮影に備えたそうだ。
現在、唐橋西詰の河川敷南側からは、東海道本線は見えなくなっている。映画の撮影から半世紀が経つ間に川幅が広くなり、護岸工事が加わったことがわかる。
5. 大津の夜景
小津監督の江戸東京を想う
大津の街を歩くと、小津監督は撮影の前に入念な準備を積み重ね、作品に深みを加えていたことがわかった。
大津の街に残る、浮世絵に出てくるような江戸情緒の面影は、小津監督が戦後からこだわり続けたディティールである。
それは、東京大空襲で失われた、かつての東京への望郷なのであろう。