Trip To Movie Locations : Horikiri Shobuen, Tokyo
写真・エッセイ/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画監督・小津安二郎ゆかりの地を歩くエッセイ。今回は東京の堀切菖蒲園を訪ね、江戸名所の面影をめぐりました。
駅名になった名所
京成電鉄に「堀切菖蒲園」という駅がある。
電車に乗って通り過ぎるたびに、「駅名になるくらいだから、たぶん、すごい所だろう」と思っていたが、一度も行ったことはなかった。
小津安二郎監督の映画『戸田家の兄妹』(1941年)を観ていたら、セリフの中に「堀切菖蒲園」が出てきた。
「やはり、すごい所だ」と驚き、あわてて出かけたのが旅のはじまりだった。
◆描かれたデートコース
『戸田家の兄弟』は、富豪の死後発覚した借金で、家族が離散する物語。
「堀切菖蒲園」のセリフは映画の序盤に登場する。
家族は当主夫人の還暦祝いに集まり、記念の昼食会を楽しむ。午後は家族が別々に用事を済ませ、帰宅した。
当主夫妻は日比谷公園で散策を楽しんだという。すると三女が「まぁ、素敵!お父さまとお母さま二人きりで “そんなこと” なさったの何年ぶり?」とたずねる。
父は「なぁ、母さん、この前いつだっけ、堀切へ菖蒲を見に行ったのは?」
母は「震災の翌々年(1925年・大正14年)ですよ」と答え、三女は「それじゃ十何年ぶりですわ」といった。
「そんなこと」とは、今でいうデートのことであろう。セリフに選ぶ行き先は「浅草の天ぷら屋」や「上野の精養軒」という選択もあったと思うが、「堀切菖蒲園」を選ぶことで風流な味が出ている。
◆江戸名所をいまに伝える
堀切の湿地を生かし、花菖蒲の栽培がはじまったのは室町時代とされている。6月が開花の見ごろになる。
江戸時代になると、堀切に菖蒲園がたくさんできて名所になり、多くの浮世絵に描かれた。嘉永元年(1848年)に12代将軍・徳川家慶が鷹狩りの道すがら立ち寄っている。
明治維新とともに花菖蒲は欧米に輸出され、日本の美しい花として世界の人々を魅了した。映画の夫妻が菖蒲園に行った1925年頃は人気の全盛期で、1931年(昭和6年)に京成電鉄の「堀切菖蒲園」駅が開業した。
しかし、都市化にともなう水質汚染と第二次世界大戦の影響で、菖蒲園は相次いで閉園。一旦途絶える。戦後、堀切園が唯一復興を遂げ、いまは葛飾区の管理のもとで江戸名所を継承している。
戦場で再発見した日本
小津監督がセリフの中に「堀切菖蒲園」を選んだ背景として、敬愛していた浮世絵師、歌川広重が『名所江戸百景』のなかで描いたことが思い浮かぶ。
小津監督は『戸田家の兄妹』のシナリオを書く2年前、日中戦争に出征。中国の戦地で激戦の銃弾をくぐりぬけ、仲間の多くが戦死した。
この戦争体験が、小津監督の映画づくりに変化をもたらした。中国大陸の殺伐とした戦場で、小津監督が常に思い出していたのは、日本の美しい文化だった。
日本人がもつ家族の絆、気品のある立ち振る舞い、芸術・文化の洗練された美学が、日本を離れることで見えてきたのである。
従軍から復帰後第一作『戸田家の兄妹』には、早くも日本回帰の影響が見られる。セリフに選んだ「堀切菖蒲園」もそのひとつと思われる。
しかし、小津監督の日本回帰とは逆に、日本は戦争で多くの犠牲者を出しながら、同じ過ちを繰りかえし、軍国主義へと突き進む。
映画が公開された年の12月、太平洋戦争が勃発。小津監督は再び戦地へ招集された。
メインストリートの天津丼
小津映画のエンディングは、主人公が新天地に旅立つパターンが多い。『戸田家の兄妹』のエンディングは、主人公が中国の天津に旅立つ場面で終わる。
ここにも小津監督の戦争体験の影響を感じる。当時、天津は日本の占領下で、日本企業の支店も多く、現実味のある設定だった。祖国を離れて戦った小津監督の境遇が重なる。
天津のことを考えながら堀切の商店街を歩いていると、中華料理屋が多く目につき、天津丼が食べたくなった。
しかし、店舗が多い割には、麺類とチャーハンを中心にする店が多く、ようやく天津丼を扱う「中華料理タカノ」を見つけ、注文した。
出来たての天津丼の分厚いあんかけは、酢の香りが濃厚に漂う。あんかけをレンゲで切りくずし、ドロリと流れる動きをじっと見ながら、ご飯の底まで到達したのを見計らって混ぜる。
あんかけのトロみとご飯が入り混じる流動感は、ほかの丼物やカレーにはない独特のご飯体験があり、久しぶりにおいしさを堪能した。
フワフワのカニ玉の甘みと焼き色の香ばしさが、あんかけの味を引き立てる。そのなかに仕込まれた、ネギのみじん切りのシャキシャキとした食感がアクセントになっている。
あんかけは見た目以上に熱く、舌を火傷した。でも、次に天津丼を食べるときまでに教訓を忘れ、同じ過ちを繰りかえすのであろう。