DARK ROOM IN ROHAN KODA’S RESIDENCE BUILT IN 1868
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
浅草から近い向島に、カタツムリの遊具を置く公園がある。
ここは文人の幸田露伴(1867-1947)が、1908年(明治41年)から1924年(大正13年)にかけて住んだ家の跡地で、戦後、地主が区に寄付をしてできた公園である。
のんびりと自分のペースで生き、転居の多かった幸田露伴が自らの家を蝸牛庵(かぎゅうあん:カタツムリの家の意)と呼んでいたことが遊具の由来である。
向島界隈の下町情緒は、幸田露伴のほかにも、たくさんの文人墨客に愛されてきた。曲がりくねった路地に点在する古民家や個人商店が往時の雰囲気を今に伝えている。
昼はこの地で70年以上続く老舗割烹「魚大」へ。元が魚屋さんというだけあって、昼の定食でも素材の質と量は群を抜く。
注文は店長から、今日はこれがおすすめだよ、と言われた子持ちカレイの煮付けにした。濃い辛口の煮汁は、東京の伝統の味である。
卵のかたまりを少しずつほぐし、煮汁をたっぷりつけながら、細かい粒が口の中ではじける食感を味わっていると、昔の食卓を思い出す懐かしさが感じられた。
幸田露伴が明治時代に向島で暮らした旧宅は、愛知県の博物館明治村に移築保存されている。この家は、酒の卸し問屋の別棟として建てられた建物を幸田露伴が借りて、手を加えていたものである。設計や施工には、もてなしや生活のための工夫が随所に見られる。
床の間の接合部には、クギを打ち付けた跡を隠すためと、来客の目を楽しませるために、水鳥の形をした金属カバーを取り付けている。職人技による精巧な金属細工は、東京下町の名産である。
トイレは来客用と家族用に2部屋用意されている。
夏の暑さをしのぐために、風を通す窓が多く見られる。
現代の形に近い、床下や階段下の収納法も見られる。
趣味に対する投資はケタちがいで、当時相当高額だった写真機を入手し、赤いガラス窓を設置した現像用の暗室まで作っている。比較的新しい洗面具は、露伴転居後の住人が、1969年の移築解体直前まで使用していたものと思われる。
建物の解説をするボランティアの婦人は、見物客の子供たちから「暗室って何?」と、訊かれるのだそうだ。パソコンや携帯電話が写真の管理をする現在では、暗室の実感がないのであろう。ボランティアの婦人が「何だと思う?」と、訊きかえすと、子供たちは「わかった、暗殺する部屋だ」と、答えるのだそうだ。
カタツムリの生活は、遠くなりにけり。