Trip To Movie Locations : Kamata, Tokyo
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画ゆかりの地を歩く連載コラム『名画周遊』
今回は、かつて松竹の撮影所があった蒲田を訪ね、小津安二郎監督や名優の足跡をめぐります。
キネマの跡地
電車の発車合図に、メロディーを使う駅がある。選曲は、その駅ならではの由来があり、移りゆく車窓を楽しませてくれる。
JR蒲田駅の発車メロディーは、かつて蒲田にあった、松竹の撮影所で親しまれた『蒲田行進曲』が使われている。
松竹の撮影所が蒲田にあった1920(大正9)年から1936(昭和11)年までは、西洋文化が大衆に普及してきた時代で、街にあふれるモボやモガはカフェに集い、蓄音機から流れるジャズで踊り明かしていた。
『蒲田行進曲』は当時の洋楽に日本語の歌詞を付けたもので、華やかな時代背景と、日本映画の創世記を担った人々がしのばれる。
その一人、笠智衆は1925(大正14)年、21歳の頃に松竹蒲田撮影所に入社すると、二十代のほとんどを蒲田で暮らし、安い下宿を求めて十数回引っ越している。
晩年のエッセイで蒲田時代のことを「まだ、映画が活動写真と呼ばれていた頃で、みなの楽しみの中心でした。新しいシャシンをかければ、どこの小屋も必ず満員になる」と映画産業の隆盛を書きながら、街の印象は「『映画の都』と呼ばれた蒲田ですが、自分が貧乏していたせいか、それほど華やかな街には思えませんでした」と回想している。
高峰秀子は1929(昭和4)年、5歳の頃に松竹蒲田撮影所の子役オーディションで採用され、半世紀に及ぶ女優のキャリアをここからスタートしている。
当時の撮影所の印象を、自叙伝の中で「ゴタゴタとした町工場のような蒲田撮影所」と書いている。「キネマの天地」と歌われるのは、あくまでも銀幕の中の話で、実際の蒲田は、東京の下町の一つであった。
現在、撮影所の跡地には、ガラスとコンクリートで囲まれたビルが建ち並び、撮影所の面影はほとんど残っていない。
敷地の一部に、撮影所の復元模型と、かつて撮影所前にあった松竹橋の柱を展示するのみである。
商店街の活気
蒲田から松竹の撮影所が移転すると間もなく、戦争の足音が日本中を覆い始めた。やがて、撮影所があった頃の商店は、空襲でほとんど焼けて無くなってしまった。
終戦をむかえると、蒲田駅西口に闇市が建ち、現在の西口商店街に至る基礎を築いていった。高度成長年代、復興を遂げた西口商店街を感慨深げに歩く往年の松竹スタッフがいた。小津安二郎監督である。
小津監督は1956(昭和31)年、高度成長を支えるサラリーマンの悲哀を描く映画『早春』を制作すると、主人公の夫婦を演じる池部良と淡島千景が暮らす街の設定に蒲田を選び、駅の周辺でロケを行っている。
映画の中では、夫婦の家に遊びに来た女友達が、夕飯のすき焼き用の牛肉を買いに行こうとすると、淡島千景は「西口まで行かなきゃ駄目よ」と、声をかけている。撮影所があった頃から栄えていた西口商店街のことで、蒲田に土地勘がある小津監督らしいセリフだ。
小津監督は1959(昭和34)年に制作した映画『お早よう』の舞台設定にも蒲田を選び、登場する主婦同士のセリフに「西口のマーケット」を挿入している。
笠智衆や高峰秀子が回想する蒲田の下町風情には、下積み時代の苦労がにじむが、小津監督は、そんな街に庶民の生活力を見出し、映画の味付けに生かしていた。
今も蒲田駅西口には商店街が幾筋も伸び、飲食店や生活雑貨店が軒を連ねる。近所にスーパーマーケットもあるが、商店街の人通りは絶えず、活気がある。地元の個人商店の創意工夫が積もった、土着のショッピングモールである。
小津安二郎とカレーライス
小津監督は蒲田撮影所時代、カレーライスに縁がある。当時を回想したエッセイで、カレーライスのおかげで映画監督になれたと書いている。
それによると、小津監督は24歳の助手時代のある日、撮影所の食堂に行列していると、後から食堂に来たベテラン監督のカレーライスが先に配られ、自分の分が後回しされた。
怒った小津監督は「順番だぞ!」と給仕に向かって一喝すると、誰かが「助手は後回しだ!」と叫んだ。小津監督は声のする方に向かって、誰ともかまわず、殴りかかろうとすると、周りの人から押さえられ、乱闘は寸前で回避された。
小津監督が正義を問うた戦いは、すぐに撮影所内で「小津のカレー事件」として知れ渡り、所長の耳にも入った。その後すぐ、小津監督は所長から「面白い奴」と思われたのか「一本撮ってみろ」と言われ、監督デビューを果たしている。
今も蒲田駅西口商店街には、そんなエピソードを思い出す、昔ながらのカレーライスを出す店が多く残る。激辛やスパイシーブームで忘れ去られた、ダシと素材の旨みが生きた、日本のカレーライスである。
かつて、蒲田駅前には、映画スタッフの関係者が経営する喫茶店があり、小津監督も入り浸っていた。
当時、蒲田駅界隈は、近くの池上本門寺で祭礼があると人出であふれ、喫茶店も単価を稼ぐために、にわか食堂に早変わりしていた。
そんな日は、小津監督も撮影そっちのけで喫茶店に駆けつけ、カレーライス作りを手伝っていた。
小津監督は映画の中に、カレーライスを登場させている。
小津監督が1931年(昭和6年)に蒲田で制作した映画『東京の合唱』は、岡田時彦演じるサラリーマンの解雇から再就職までを描く物語。岡田時彦はある日、街で出会った中学校の恩師に、再就職口の紹介を依頼すると、返事が届くまで、恩師が学校引退後に始めた洋食屋を手伝う。
岡田時彦は家族に就職活動に行くと言って出かけながら、街頭で洋食屋のチラシを配っていると、家族の幼い娘に見つかる。この時、幼い娘を演じたのは、当時7歳だった高峰秀子である。それはともかく、チラシによると、恩師の洋食屋の名物料理はカレーライスで、お店のコンセプト「一皿満腹主義」が大きく書かれていた。
今も蒲田の食堂のカレーライスには、「一皿満腹主義」の伝統が多く見られる。
無声映画の幕引き
松竹の撮影所が蒲田から移転した要因は、騒音にあった。
当時、映画の主流は無声から音声入りに代わりはじめていた。その頃の音声入り映画の撮影は同時録音で、俳優が良い演技をしても、撮影所の近所から聞こえる豆腐屋のラッパの音や、自動車のエンジン音が入ると、やり直しになっていた。
1931年(昭和6年)、羽田に飛行場ができると、蒲田の騒音は増える一方で、松竹は1936年(昭和11年)、撮影所を大船の街はずれの閑静な地へ移転した。その大船撮影所も今は無い。
現在、蒲田では、撮影所の面影は少ないけれど、商店街には、松竹映画が描いた下町人情喜劇の雰囲気が残る。カレーライスを目指して歩いていると、駅のホームから『蒲田行進曲』の発車メロディーが聞こえた。