CINEMA TALK BAR
YOKOHAMABASHI,KANAGAWA PREFECTURE
文/登地勝志 Essay by Katsushi Tochi
写真/織田城司 Photo by George Oda
若い頃に観た映画が、DVDの復刻で手軽に閲覧できるようになったことは、ファンにとって、ありがたいことです。
1960年前後に、篠田正浩や中平康など、当時の若手監督が斬新な手法で撮った映画は、ゴダールやトリュフォーといったフランスの映画監督に影響を与え、一連の潮流は、フランス語で「新しい波」を意味するヌーベルバーグと呼ばれました。
DVDであらためて観る日本のヌーベルバーグは、ファッションやアクションの他に、横浜の裏通りがいい味を出していることに興味がわき、公開から半世紀後のロケ地を訪ねました。
横浜橋通商店街 YOKOHAMABASHI STREET
横浜港から奥まった場所にある大通り公園は、水運用の運河を埋め立てた跡地で、横浜橋通商店街の入り口には、かつて横浜橋がかかっていました。
映画『乾いた花』(篠田正浩監督1964年公開作)の冒頭で、3年ぶりに出所したチンピラを演じる池部良が、
「ここは俺のシマだ。
俺はためらいもなく、ここにもどってきた」
と語るナレーションとともに、横浜橋通商店街が映ります。
映画に映る横浜橋通商店街は、運河と橋があった時代で、アーケードは設置されていませんでしたが、通りは買い物客であふれていました。
スーパーマーケットが無かった頃で、商店街は食材や生活資材を求める人たちで繁昌していたのでしょう。かつてはどこの町でも見られた光景です。
「俺のシマ」と凄みながら、どこにでもあるような商店街を映す展開は、スリルを強調する効果がありました。
現在の横浜橋通商店街は明るいイメージを作ろうとしているようで、当時の面影は残っていませんでしたが、ふと見る横丁に、ヌーベルバーグの主人公が暗躍した雰囲気を、かすかに感じます。
横浜橋から港へ歩く WALK TO HARBOR
30年程前、横浜の街に憧れて通っていたことを思い出し、横浜橋から伊勢佐木町、馬車道などをめぐりながら、港まで歩いてみました。
当時の映画館や喫茶店は、ほとんど無くなっていて、残念でしたが、港に近づくにつれて、看板の文字が韓国語から中国語、日本語、英語へと変わっていく景色は、港町が発達した歴史を見る面白さがあります。
万国橋から海岸通りを見下ろすアングルは、デビュー当時の加賀まりこが、『月曜日のユカ』(中平康監督1964年作)の中で、パトロンと別れて歩く場面で使われました。
都会で生きる若者の新生活を貿易の玄関口を使って、上手く見せていたことを感じます。
テーラーグランド TAILOR GRAND
港の近くまで来たので、山下町の「テーラーグランド」に立ち寄って、旧知の仕立人、長谷井孝紀さんを訪ねました。
長谷井さんは、夏物スーツの下ごしらえをしている最中でした。今年は英国製のウールでフレスコ織りのネイビーや、アイルランド製リネン麻のカーキなどが人気だそうです。
アトリエの中に、一風変わったチェックのスーツがあります。
長谷井さんに由来を訊いたところ、音楽家の加藤和彦さんが生前愛用していた服で、関係者から「仕立屋さんなら、何かのお役に立てば」と寄贈されたものだそうです。
生地は英国の伝統柄で、英国のテーラーで仕立たものです。
ヌーベルバーグの映画が流行した1960年前後、ロンドンの若者たちは、工場や事務所の下働きから帰ると、各自が思い思いのデザインで仕立てたスーツに着替え、酒場やダンスパーティーに繰り出していました。
やがて、若者たちの中からビートルズやストーンズがデビューして人気になると、彼らが着るモダンなスーツスタイルは世界中の若者たちの間で流行しました。
そんなスピリットとユーモアを、いつまでも忘れなかったことを思わせるロックな一着です。
長谷井さんも古い映画のファンで、二人で映画談議をしていると時間が尽きません。
長谷井さんによると、「テーラーグランド」が入居するインペリアルビルは、ヌーベルバーグの映画だと、篠田正浩監督が1962年に手がけた『涙を獅子のたて髪に』の中に登場して、港のチンピラを演じる藤木孝が、アパートの階段を降りる場面のロケに使われたそうです。
レストランパブ ホフブロウ THE HOF BRAU
インペリアルビルに近いレストラン「ホフブロウ」は戦後間もない1947年に海岸近くで開業して、1980年に現在の地に移転してきました。
『涙を獅子のたて髪に』の中では、加賀まりこがウエイトレスをするレストランとして「ホフブロウ」も映ります。
長谷井さんによると、「ホフブロウ」のバーカウンターとテーブル席の間にある間仕切りは、飲酒を中心にしたショートタイムの客と、食事をゆっくり楽しむ客の間に距離をおくためのもので、横浜港に立ち寄る外国人客向けに、欧米のレストランでよく見る造りを再現したものだそうです。
バー スリーマティーニ THREE MARTINI
同じくインペリアルビルの近くにあるバー「スリーマティーニ」は、1994年に野毛で開業して、2000年に現在の地に移転してきたお店で、歴史は浅いながら、年季の入った雰囲気があります。
店内の音楽の音源はLPレコードがほとんどで、マスターがカウンターの中で接客しながらかけています。
LPは客層を見ながら選んでいるようで、プレスリーがかかったかと思うと、スティーリーダンの『プレッツェル・ロジック』など、ロックとジャズがクロスオーバーした、70年代の曲もかかります。
接客が忙しくなると、レコードに針を落とす「ボツン」という音が、だんだん大きくなるのはご愛嬌で、むかし、友達のアパートの部屋でレコードを聴かせてもらったことを思い出す懐かしい響きです。
酒の肴は、気取らない和製洋食で、日本人の口に合うものが多く、居酒屋にいるようなリラックス感があります。
カウンターにさり気なく置かれたレトロなジョニーウオーカーの販促物は、ジョニ赤好きの小津安二郎監督が『宗方姉妹』(1950年作)の中で田中絹代と高峰秀子演じる姉妹が経営するバーのカウンターに置いていたことを思い出します。
こうした装飾が醸し出す雰囲気は、個人商店ならでは魅力と言えるでしょう。独特の雰囲気に浸るために、地元の常連客や観光客が入れ替わりやって来ます。店主の熱意が、客を呼び込むことは、いつの時代も変わらないことだと思います。
シルクセンター SILK CENTER
シルクセンターは、生糸貿易や観光を振興する目的で1959年に建てられ商業ビルです。建物は、渡仏してコルビュジエに師事した坂倉準三が手がけたシンプルでモダンなデザインです。
ビルの中層階には、かつて「シルクホテル」という名のホテルがあり、『乾いた花』の中では、裏社会に復帰した池部良が商談をする場面のロケに使われました。
この時、池部良は極端に細いラペルのスーツを着ていました。これは当時の最先端の流行を取り入れたものです。今見ると、バランスが良いスーツとは言えませんが、出所した男が、失われた時間を取り戻そうと、いち早く流行服を取り入れたことが感じられ、見事な演出だと思います。
この場面の背景には、シルクホテルのモダンな内装が効果的に使われていました。シルクホテルは1982年に耐火構造の問題で閉鎖されたので、現在は見る事ができません。「テーラーグランド」のパーティーで信濃屋の白井俊夫さんにお会いした機会に、往時のシルクホテルのお話をおうかがいしました。
白井俊夫さんの談話
「シルクセンターの場所は、横浜が開港した当時、山下町に外国人居留地ができると、ジャーデン・マセソンという英国商社がいち早く建てた日本支店の跡地です。当時の横浜の人々は、突然目の前に洋館が並ぶ「異国」が現れたので、さぞ驚いたことでしょう。ジャーデン・マセソンなんて上手く言えないから、日本の管理地名の『英一番館』で呼んでいたそうです」
白井俊夫さんの談話
「『英一番館』は関東大震災で倒壊した後、再建されることはありませんでしが、跡地にシルクセンターが開業すると入居するショッピングモールには、土地の由緒にちなんで、英一番街という名前がつけられました。シルクホテルがあった頃、私も泊まりに行ったことがあります。アメリカとはちがうヨーロッパのモダニズムを感じました」
シルクホテルの残像を求めて、白井さんに教えていただいた英一番街を訪ねました。
現在の英一番街は、空きスペースが目立つ状態でしたが、むき出しの階段と平板型の手すりは、今見ても違和感が無く、シンプルなデザインが持つ普遍性を感じます。
ヌーベルバーグのロケに使われた横浜は、観光客向けのランドマークではなく、地元の人しか知らないような裏通りで、無国籍で混沌とした中に、リアルな生活感と物本来の表情が生きていて、想像力を刺激するところが魅力です。
シルクセンターの床のモダンな波形模様は、海外に追いつけ、追い越そうとした人たちの「新しい波」のようです。