CINEMA TALK BAR
SANGENJYAYA,TOKYO
文/登地勝志 Essay by Katsushi Tochi
写真/織田城司 Photo by George Oda
東宝スタジオ TOHO STUDIOS
高倉健さんは、明るくて、お茶目な人でした。
寡黙で不器用な一匹狼、というのは営業用の顔で、撮影現場でお会いする健さんはよくしゃべり、いつも冗談ばかり言って、周囲を笑わせていました。
私がはじめて健さんの映画を観たのは1963年(昭和38年)に公開された『人生劇場 飛車角』です。
当時小学生だった私を、父親が近所の映画館に連れて行って観せてくれたのが最初でした。それ以来、健さんが出る作品はほとんど観ています。
健さんの作品を振り返ることは自分の生い立ちを振り返ることで、膨大な記憶に、気持ちの整理がつかないまま、ゆかりの地を訪ねては、物思いにふけっています。
東京都世田谷区の砧にある東宝スタジオは七人の侍が門番をする日本映画の砦で、健さんも足繁く通った場所です。
コーヒー・セブン COFFEE SEVEN
三軒茶屋にある「コーヒー・セブン」は、直接健さんとは関係ないのですが、昔の健さんの映画に出てくるような、70年代調のレトロな雰囲気が気に入っています。
ここでは私が持つ健さんゆかりの品の一部を紹介しましょう。ひとつは、高倉プロダクションのバッチ。これは健さんが東映から独立した後に立ち上げた個人事務所のノベルティーグッズで、関係者からいただいたものです。
もうひとつのレザーストラップのついたキーホルダーは健さんが使っていた物と同じモデルです。健さんはこのキーホルダーに鍵を10個ぐらい付けてジーンズのベルト通しのループにぶら下げていました。ヨットの帆をはる時に使うシャックルという金具にコードバンの革ひもを編んで付けたもので、健さんの身の回りの世話をしていた高輪の理髪店主の手作りです。私も同じ理髪店に通っていたので店主からいただきました。
このキーホルダーを握りしめて想うことは、私にとっての健さんは、親父ほど歳が離れていましたが、親父の背中を見るイメージではなく、兄貴とよぶには僭越で、いつまでも憧れのスターのままなのです。
居酒屋兆治 BAR CHOJI
三軒茶屋の路地裏にある居酒屋「兆治」は、健さんファンのマスターが健さんの主演映画『居酒屋兆治』(降旗康男監督1983年・昭和58年作)をイメージして開業したカウンターだけの小さなお店です。降旗監督公認で、監督がポスターに兆治とサインした書体を提灯に使っています。
地元の常連客や健さんファンが入れ替わり来ては一人で黙々と酒を飲んで帰っていきます。
私が健さんと頻繁に会うようになったのは1980年代で、当時私が店員をしていた原宿のセレクトショップによく来店していただきました。
健さんの好みはだいたいわかっていたので、来店されると新しく入荷した商品の中からおすすめのアイテムを選んで紹介していました。そんな、お客様と店員の関係が10年ほど続きました。
1990年代に入り、私がお店をやめてスタイリストのアシスタントをはじめた頃、健さんのテレビ撮影の現場に立ち会う仕事がめぐってきました。
当時、健さんは『チロルの挽歌』(山田太一脚本 1992年・平成4年放送)というNHKドラマを収録していました。
北海道のとある町で、炭坑閉山後の地域活性策としてテーマパークの建設にかける人々の悲哀を描く物語です。健さんはテーマパークに出資する鉄道会社の社員として
現地に単身赴任する担当者の役で、撮影の大半は北海道の芦別市でおこなわれていました。
撮影が大詰めとなり、衣装替えも頻繁になったので撮影現場から助っ人の要請があり、私も1泊2日で北海道に行くことになりました。
札幌の空港から芦別までは、関係者が用意してくれた車に乗って3時間ほどかかりました。撮影現場は氷点下で、空気中の水蒸気が凍るダイヤモンドダストをはじめて見ました。
番組制作の関係者が宿泊している芦別温泉のスターライトホテルに着くと、健さんの部屋まで挨拶に行きました。
すると、健さんは「おう!登地さん、遠路はるばる来てくれて、ありがとう!ところで、何しに来たの?」と言って大笑いし、「一緒に晩飯食おうぜ!」と、夕食に誘ってくれました。
夕食のメンバーは私のほかに撮影関係者2人と健さんの4人で、ホテルから夕食を食べにいく寿司屋までは、健さんが運転する四輪駆動車で、真っ暗な雪道の中を20分ほど走っていきました。
健さんの運転に恐縮しながら、健さんがしきりに北海道の魚はうまい、というので、寿司に期待をふくらませていました。
寿司屋に着いて、座敷に陣取った健さんが注文したのは、すき焼でした。私が唖然としていると、またもや健さんは大笑いです。あとでちゃんと寿司も注文してくれました。
健さんは、次回作の準備をしながら忽然と消えてしまいました。周囲に気を使わせることを嫌った健さんらしい最後です。
お別れの会もなく、お世話になったお礼をいう場がないので健さんをしのびながら酒を飲み、町をさまようのです。