OLD SCHOOL IN MATSUZAKI TOWN, SHIZUOKA PREFECTURE
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
梅雨の中休み、伊豆半島が海水浴シーズンで混雑する前に、松崎町に残る明治の文化遺産を訪ねようと思い、車で西伊豆の海岸線を南下した。
途中どこかで朝食を、と思っていたが、岬をめぐりる峠道に飲食店は少なく、富士山をのぞむ絶景ばかりであった。
ようやく戸田の町までたどり着くと、すでに正午をまわっていた。街道沿いに「中華の店 海苑」と看板をかかげたお店を見つけると、思わず車を止め、ラーメンを注文した。
陽光が透きとおる麺はやわらかく、スープの油分と一体となるトロ味は、子供の頃食べたラーメンを思い出す懐かしい食感だ。むかしの料理法を地道に続けていることが希少価値になっている。
ラーメンを食べ終わって店を出る頃、婦人店主は客席に座って、テレビ小説の「あまちゃん」を観ていた。
再び車にのり、一路松崎を目指す。
松崎は古くから港町として栄えた。江戸時代は、江戸に集まる海運の中継港の役割をはたし、江戸に向かう業者からは水産加工品の引き合いが多かった。
1854年(安政元年)に発生した下田大津波で、建物の被害が大きかったことから、以降の建築には、耐火、防水、防湿にすぐれた四角い瓦を壁に貼り、白い漆喰で継ぎ目を固定する「なまこ壁」とよばれる工法が積極的に取り入れられた。現在も町の所々に残るなまこ壁が独特の景観を生み出している。
明治時代、絹糸の輸出が盛んになると、松崎の温暖な海岸線で採れる良質な桑が蚕の餌として引き合いが多くなる。町民の新たな産業振興も積極的で、創業間もない群馬県の富岡製糸工場に研修生を派遣して、技術を習得すると松崎の地でも製糸業を開業する。絹織物関連の産業と交易が盛んになる地で、中瀬家は有力な呉服問屋として財をなしていく。
昭和時代になると、度重なる戦争と洋装化で和服の需要が減少して中瀬家の経営も斜陽となる。中瀬家の建物は1988年(昭和63年)、昭和の終わりとともに、町に買い取られた。蔵の扉の絢爛豪華な漆喰装飾に栄枯盛衰が感じられる。
1872年(明治5年)、明治政府は欧米の教育制度を規範に国民皆学を目ざし、学制を発令すると、全国各自で学校の建築が盛んになる。
新たな教育制度は必ずしも順調なスタートではなく、学費負担、家事手伝いをする人手を長時間拘束される反発が新政府への不満へとふくらみ、学校を焼き討ちする事件も相次ぎ、当初の就学率は30%ほどであった。
こうした葛藤の中で松崎町では、これからの国際社会で日本人が生きていくには学問が不可欠という気運が高まり、町民の団結と努力により、1880年(明治13年)、岩科学校が開校する。
建築デザインは社寺風と洋風のミックスをベースに、地元名工による彫刻となまこ壁を細部に取り入れ、松崎らしい独自の外観に仕上げている。
荘厳な館は小学校というよりも、当時の国際ホテルを彷彿とさせる豪華さで、町民の新しい時代に対する気概が感じられる。
岩科学校では戦後生まれの子供たちが増えると、1957年(昭和32年)、木造校舎の隣に鉄筋コンクリートの校舎を新築する。二階の円形バルコニーのデザインは旧校から踏襲した。
旧校の木造校舎は幼稚園など補助的な役割で使い続け、全国の古い校舎が取り壊されていくうちに希少価値となり、1975年(昭和50年)、現役の校舎でありながら国の重要文化財に指定された。その後は校舎の役割を終え、保存のために改修工事がほどこされた。
現在、百葉箱を記録当番の生徒が開くことはない。岩科学校は2007年(平成19年)、少子化により廃校となった。