HOTEL SHIGEYA ,OKAYAMA PREFECTURE
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
岡山県の出雲街道にある美甘(みかも)は、小さな宿場町で、そのむかし後醍醐天皇が立ち寄った時に、くさぎ菜をご飯にかける郷土料理を振る舞った言い伝えがあるそうだ。
今でも、この旧街道の面影残る山村で、旅人に山菜料理を振る舞うのが「しげや旅館」である。
家族で切り盛りする小さな旅館は、無理をせず、一度に一組の客を行き届いた料理と給仕でもてなす。
夕食は、まず全体をつつむ自然な茶色が目に入る。印象深いキツネ色のザルは、かつて山菜を干すために使っていた古民具だそうだ。手前で鈍く光る素朴な器はこの地の備前焼である。配膳には、土とともに生きる山の幸の風情を再現して、美味しさ感じてもらおうとする工夫が感じられた。
「その日のものを、その日のうちに召し上がっていただきたい」と語る夏色の和服を着た女将は「ウチとこの山があるから、そこに毎朝山菜を採りに行ってます」といって、機敏に料理を運んだ。献立も季節の移ろいとともに日々かわるそうだ。
小さなキイチゴが入る食前酒は、甘みも酸味もおさえた辛党好みの飲み口だ。
手前の二切れはイワナの刺身。奥が三年目のヤマメの刺身。ともに生息する川の水が澄んでいるので、臭みがなく、脂がのる。甘みのある濃い醤油でいただく独特の取り合わせは海の魚とは別の重厚感がある。
山菜は毎朝摘むので、生の状態から調理する。塩漬けして保存したものは、ほとんど使わないそうだ。
珍しい川魚のすじこは、朝とれたものだそうだ。口に入れた時は薄味だが、弾力があり、噛むほどに味がでてくる。
ニンギョウ茸の漬物といただく、軽く炙ったヤマメはさっぱりした味わい。
どの山菜も苦みがなく、むしろ甘みを感じる。女将は「山菜がおいしく感じるのは、山菜のアクが体の眠っている部分をおこすので、体が求めているのですよ」と語る。
背開きして骨を取ったヤマメの背に、シメジとこうじ味噌入れて焼く。鮮やかな色の付け合わせはハチクの梅酢漬け。淡白な味の川魚は塩焼きにすることが多いが、独自の工夫で別の味わいが楽しめる。
ヤマイモを溶いた暖かいだし汁は、ヤマイモの滋養がそのまま体内に溶けこんでくるようなとろ味がある。中にはムカゴやシメジ、ジャガイモが入り、サンショウの葉が香りをつける。フタに使ったダンコウバイの葉は、あえて見せた裏側のやわらかい色が汁の味を引き立てる。
ワラビはまるまるとしてやわらかい。噛んでいるうちに粘りが出て口の中で糸をひく。思わず「これがワラビなのですか?」と女将に聞くと、「ワラビは土に左右されるので、ちがうはずです」と語った。
ふと天井を見上げると欄間の造りが珍しいので、よく見ると刀のつばが埋め込まれていた。現代の物の中に古民具の生かし方がうまいと思った。つばにもいろいろなデザインがあり、かつての持ち主は殿様か、はたまたこの地で息絶えた落ち武者か、と想像すると興味が尽きない。半分開いた障子の外は真っ暗な闇で、文明の音は聞こえず、秋の虫の鳴き声だけが響いていた。
郷土料理は、土地の酒とともに味わいたい。長年かかって土着した、地のもの同士の組み合わせは揺るぎがなく、旅の楽しみのひとつである。旅館がすすめる地元の銘柄、御前酒は、ほのかな甘みで、ベタつかずに飲みやすく、山菜とよく合う。
定番料理は具の選び方にひねりがきいている。ころもの薄さ加減も絶妙だ。左からヤマメ、その下の大きな葉はヤマイモの葉、その右はツユクサ、上の濃い紫色の花穂は万葉の昔から秋の七草のひとつに数えられるクズ、その右はヨモギの葉。いずれも抹茶塩でいただく。手前のイチジクは熱を通すことで酸味がとんで甘みが増し、暖かいまんじゅうのあんこのような甘さがある。
ご飯とともにいただくきのこ鍋は、採れたての素材の歯ごたえと香りが質素なダシ汁だけの料理を豊かな味わいにしている。
ご飯物は古代米の上にヤマウドの佃煮、うずらの卵、ヤマメの卵、きざみ海苔がのる。佃煮の濃い味を卵がやわらげ、かつて後醍醐天皇が味わったかけ飯の現代版を思わせる。香の物の手前の見えるのは醤油と酒でさっと炒めたイタドリを凍らせたもの。山菜のシャーベットという発想に驚く。
デザートは山菜を砂糖で煮込んだもの。和の素材を洋で調理する和洋折衷。「甘にがい」という、珍しい味覚を生み出している。
食後に骨董の湯のみでいただくアケビのお茶は、にがみが少なく、やわらかい味だ。茶葉にするアケビは5月に新芽を干して1年使うそうだ。
女将に、山菜の旨味をあらゆる調理で引き出す発想について聞くと、「私たちは、『いいもの』は食べていないかもしれませんが、『おいしいもの』はわかっています」と、控えめながら力強く語った。
夕食を終えて、客間に上がると、どこからともなく蚊取り線香の香りがした。
翌朝、あたり一面真っ白だった霧はいつのまにかはれ、残暑の日ざしが斜めに差し込んだ。
玄関の飾りを撮影していると、通りかかった女将が気づいて「これ何だか知ってます?むかし蚕を育てる桑の葉を敷いた道具を壁に飾りました。この花は、日陰の石に生えるイワタバコという滅多に採れない花ですよ」といって、いそいそと厨房に消えて行った。
菱形の飾りも女将から「何だかわかります?」と聞かれ、全くわからなかったが、「壊れて使えなくなったせいろ」と教えてくれた。こうした古民具は、この地方に蔵をかまえる家が多いことから流通量も豊富と思われるが、単に古い物を脈絡なく羅列するのではなく、食や土地を引き立てる物でまとめられている。
旅館の朝食は、前の晩に夕食を早くすませるので、朝からごはんをたくさん食べたいと思う。おかずが多すぎても困るが、ここの量は私にとっては敵量で、ひと味ちがう献立もうれしかった。「何も付けずにお召し上がり下さい」という朝採り野菜はしっかり冷えて味が際立つ。若くて小さなキュウリは甘みがあった。
この地は岡山に出るよりも鳥取県の境港に出るほうが近い。日本海の荒波でもまれたカレイは、身がしまって味が濃く、ご飯がすすむ。大きさも朝食にちょうどいいサイズだ。
こうした料理の数々にはマニュアルは無く、「ころあい」と「かげん」を代々継いでいくそうだ。
ヤマメも朝食用に小さなサイズを揃えている。これから大きくなる魚を仕入れるので魚屋が嫌がるそうだ。
減塩ではなく、昔ながらの製法で漬けたという梅干しは、強烈な酸っぱさと塩辛さがあり、懐かしい味がした。柿の器との調和も見事である。
風情のあるおひつに入るのは、この地の水田で育ったこしひかりのごはん。水田の水がちがうので、同じ品種でも味わいがちがう。思わぬ発見に買い求めて帰る客もいるという。
豆腐の味噌汁に浮かぶのは二ラの新芽。程良い細さと長さで、味噌汁にほのかな香りと、まろやかさをもたらしている。
宿の付近には喫茶店はおろか、コンビニや自動販売機も見あたらない。コーヒー党にとってはこの時のコーヒーが久々のコーヒーで、特においしく感じられた。無論、レトロモダンかつ和洋折衷感のある骨董の器が味を引き立てていることは言うまでもない。
古民具とともに朝摘まれた山菜をいただいていると、過去から現在のなかで、その日その場の生命を実感する。
女将に旅館の仕事について聞くと、「田舎暮らしとはいえ、暇なことはありません。一年中やることはいっぱいあります。山が好きでないとね」と語った。
食卓を見ていると、女将が毎朝山を登る姿が浮かんだ。