TRIP TO MOVIE LOCATIONS:TSUYAMA/OKUTSU,OKAYAMA PREFECTURE
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
戦国時代が終わると、世の中が平和になり、多くの人が旅をするようになった。旅は武士の公用や商人の行商に加え、庶民の中へも普及していった。
出雲街道は、古くから山陽と山陰を行き交う人々の幹線道路として発達した。出雲街道の宿場として栄えた津山の町並みは、江戸時代初期に初代津山藩主、森忠政が築いた城と城下町が基礎になっている。今でも当時の遺構が町の随所に残っていて、散策すると、歴史と文化の足跡が垣間見られて興味深い。
津山城趾鶴山公園
津山城は1616年(元和2年)、13年の歳月をかけて完成した。明治維新で民間に払い下げられると天守閣や付属する建物は取り壊され、石垣だけが残った。
1898年(明治31年)に岡山と津山の間に鉄道が開通すると、町は産業や観光誘致で活気を帯びる。町おこしのシンボルとして歴史のある津山城趾を活用する機運が高まると、荒地になっていた城跡は町有となり、1900年(明治33年)に「鶴山(かくざん)公園」として公開され、町民と観光客の憩いの場になった。
その後、鶴山公園は石垣の歴史的価値が再評価されると、1963年(昭和38年)に国から重要文化財に指定されている。
旧出雲街道
津山の城下町は、明治以降の近代都市づくりの過程で、鉄道や車道が中心部からやや離れた場所に設置されたことから、中心部を東西に横断していた旧出雲街道はそのまま残された。
旧出雲街道の中でも、城の東側は、江戸時代から職人が暮らした地区にあたる。沿道には、当時の町屋が多く残り、往時の雰囲気を今に伝えている。
ここから街道を西に向かって歩いていくと、城下町の中心部に近づくにつれて、沿道には物販や飲食、サービスを生業とする店舗が増え、繁華街の様相を帯びてくる。それにともない、店舗の建築様式も徐々に昭和時代へと移り変わり、大衆文化の年表の上を歩いているようで面白い。その昔、戦に備えて随所に設けた曲がり角が、街道の趣をより深いものにしている。
津山駅からバスで小一時間ほど北上した山峡にある奥津温泉は、古くから津山藩主や家臣たちに愛用され、交通の発達とともに一般に知られるようになった。熱海や別府のように大きな温泉街ではなく、射的場やバーも無かったので、静けさを好む文人墨客に親しまれた。
吉田喜重監督が1962年(昭和37年)に公開した映画『秋津温泉』は、岡田茉莉子演じる温泉旅館の若女将の運命を、終戦直後から映画が公開される年までの17年間を背景に描く物語で、秋津温泉という架空の温泉郷のモデルになった奥津温泉と津山の城下町がロケに使われた。
映画『秋津温泉』の温泉旅館は戦時中、空襲を逃れてきた城下町の人々で繁盛していた。戦後を迎え、進駐軍が観光で訪れるようになると、座敷でツイストのレコードをかけてダンスホールとして使った。
やがて、進駐軍の特需が一段落して、城下町に復興の兆しが見え始めると、温泉旅館の来客は減りは、高齢化した経営者たちは、旅館をホテルや保養所に建て替える業者に転売していった。
城下町は高度成長時代を迎えると、旧出雲街道沿いに百貨店やアーケードが作られ、多くの人出でにぎわうようになった。今も町では観光資源の開発に余念が無く、ご当地グルメが町おこしに使われ、鶴山公園で開かれるイベントには屋台が軒を連ねている。
津山のご当地グルメは、ホルモン焼きうどんの認知度が高いけれども、近年は郷土の鍋料理に使われる「そずり肉」という牛の骨についた肉を削り(地元の言葉でそずり)取った肉を焼きうどんに転用した新メニューも見られるようになった。味噌や醤油を合わせた濃いタレで味を付けることが多く、ご飯と一緒に注文する人も見られる。
奥津温泉
映画『秋津温泉』の公開から半世紀ほど経った奥津温泉では、昔ながらの旅館が営業を続ける一方で、廃墟となった鉄筋コンクリートの建物がいくつか残っている。おそらく、高度成長時代に団体客をあてこんで作ったホテルや保養所であろう。
旅館のまわりの音といえば、渓流のせせらぎだけで、行き交う人々の姿もほとんど見られない。戦前、文人墨客が静けさを好んで通った頃は、「こんな感じだったのでは…」と、思わせる風情があった。