TRIP TO MOVIE LOCATIONS
BIZEN,OKAYAMA PREFECTURE
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画の中では、脇役のかくし味も魅力である。フェリーニの大女や、今村昌平の霊媒師などは、ほとんどの作品に登場する脇役で、ヒッチコックのように、自分をかくし味にした例もある。
こうした脇役は、無くても物語の進行に影響ないかもしれないが、監督の人間味がにじみ出て、作品に深みをもたらしている。
小津安二郎も好みが強く、ファンなら「また出た。よほど好きなんだ」と思う脇役は多い。その中のひとつに塔がある。広告塔や照明塔、電波塔、灯台、電柱、煙突など、あらゆる塔が様々な映画のカットに登場する。
『東京物語』(1953年作)を広島県の尾道で撮り終えた小津監督は東京への帰路、列車の車窓から煙突が立ち並ぶ町を見て、黙っているはずがなかった。
おそらく、「うわー、何だこの町は、俺の好きな煙突がいっぱいある。いつかここで映画を撮りたい」と思ったのであろう。その想いは二年後に撮る『早春』で実現する。
小津監督が煙を吐く勇壮な煙突の姿を数々の映画に登場させたのは、戦後から復興する日本の「のろし」のように感じたからかもしれない。それが高じて、時には物語の背景になる町も煙突ありきで選んでいたと思われる。
三石 MITSUISHI DISTRICT
小津監督が列車の中から見た煙突の町は、岡山県備前市の三石で、たくさんの煙突は耐火煉瓦の工場が集まっていたからである。
三石の町は、明治の近代化で増える耐火煉瓦の需要に古くから焼き物の町として栄えた技術と、原料の「ろう石」の鉱床がある立地を生かし、国内有数の産地になっていた。
映画『早春』は、三石に工場がある耐火煉瓦会社の丸ビル事務所に勤めるサラリーマンが、浮気の疑惑から険悪になった夫婦仲を、三石に転勤したのを機に、やり直す物語で、夫婦を池部良と淡島千景が演じた。
喧嘩別れ同然で先に三石で暮らしていた池部の下宿に淡島が訪ねてくる。
(池部)「狭い町だぜ」
(淡島)「さっき買い物に出て見てきたわ」
(池部)「ここで二、三年も暮らすとなると大変だよ」
(淡島)「そうねえ。でも、いいわよ。お互いに気が変わって」
映画『早春』では、戦争体験をひきずりながらも、高度成長の原動力となったサラリーマンたちの悲哀が描かれている。
三石の場面では、町中に10本ほどの煙突が立ち並ぶ景色が映る。耐火煉瓦の生産はこの頃から1960年代がピークで、1970年以降はオイルショックや中国製品の影響で減少していく。現在、町中の煙突は3本しか残っていない。
閑谷学校 SHIZUTANI SCHOOL
三石から近い閑谷(しずたに)には、現存する世界最古の庶民学校がある。
江戸時代の藩主、池田光政(1609~1682)は、静かな谷は勉学に集中するのにふさわしい地として、1670年に庶民のための学校、閑谷学校を設立した。
今も350年前の姿で残る閑谷学校は、人類の教育の原点を研究する貴重な資料として、敷地は特別史跡、講堂は国宝に指定されているほか、校内の数々の設備が重要文化財に指定されている。
単に古いだけではなく、建築を手がけた津田永忠(1640~1707)の創意工夫など、今見ても関心する見どころが多く、日本人の物作りの質の高さを感じる。
( 講堂 )
講堂の屋根瓦は、地元特産の備前焼によるもので、自然な茶の濃淡がモザイク状に集まる姿は見ていて飽きない。
講堂の屋根は、建物が風雨にさらされて傷まないように、軒下を長く取り、雨が外向かって垂れるように曲線が施されている。
講堂の床は漆仕上げ。「克明徳」と書かれた額装の毛筆は五代藩主池田治政によるもので、「克」は力を尽くす、「明」は物事を正しく見る、「徳」は正義をわきまえる意味で、人のありかたを簡潔に示している。
花頭窓とよばれる末広がりの窓の形は中国から伝来したデザインで、安定感があることから、話を聞く場を落ち着いた印象にする視覚効果があるとされる。
( 習芸斎 )
講堂の隣の習芸斎は毎月一日に講話がおこなわれた場所で一般にも公開されていた。天井はなく、太い自然木の梁が見える。
聴講生が床にひいた縄状の座布の中には江戸時代から使い続けているものもある。
( 小斎 )
小斎は藩主が来校した時の宿泊施設で、装飾を排した基本機能だけの質素なつくりは、備前気質を表すものとされる。
( 飲室 )
飲室は生徒の休憩室で湯茶を喫することができた。中央の囲炉裏に使われている石のふちに刻まれた「斯炉中炭火之外不許薪火」の文字はこの囲炉裏は炭火専用で薪の使用は禁止する、という意味。
薪の火は火の粉が飛び散り、火災の危険があることと、天井がすすけてくることから使用が禁止されていて、生徒もこれに従った。
飲室の土間にある隙間のある台は、湯呑みなどの洗い物の水を切るために使われていた。下は石の流しになっていて、外の下水に水が流れる仕掛けになっていた。
昔は水道が無かったので、水は入口に置いた水がめにためて、ひしゃくで汲み出して使っていた。
( 文庫 )
文庫に収蔵されている昔の教科書や蔵書は、歴史学上貴重な資料になっている。
文庫の後ろにある土手のような小さな山は火除山(ひよけやま)とよばれる人口の山で、山の後ろにある寄宿舎から出火しても文庫や講堂に延焼しないように設置されたものである。
( 楷の木 かいのき )
校庭の楷の木は左右対称に葉が生えることから楷書の語源とされ、基本をしっかり学ぶ、という意味が込められている。
( 教員住宅 )
( はん池 )
中国の池を模して作られた、珍しい長方形の池。
( 資料館 )
1905年(明治38年)に建てられた洋風校舎。現在は資料を展示する場所として使われている。
東京で明治の建物を見ると、古い物に見えるが、ここでは新しい物に見える。昔ながらの凹凸のあるガラスから見る庭が味わい深い。
( 石塀 せきへい )
学校の敷地全てを囲う全長約800mの石塀は、城壁のように石を積み上げながら、上部に丸味があり、他に類を見ない建造物になっている。巨大な龍が横たわる様を題材にしたという節もある。手作業のみの工法で、完成までに十年の歳月がかかったそうだ。
地元のボランティアガイドの老人によると、この学校に通っていた頃は、池は埋め立てられて運動場になっていて、講堂の前はテニスコートだったそうだ。
ボランティアの年齢から推測すると、1950年代後半から1960年代はじめ頃の話であろう。三石の耐火煉瓦工場が最盛期だった頃と重なる。世の中が未来に向けて成長してる時は、古い物など見向きもされなかったのであろう。
それから半世紀、世の中の価値観も変わり、校内は歴史遺産として整備され、桜や紅葉がきれいな季節は、一日に数千人の観光客が押し寄せるようになった。
喫茶 東京 TEA ROOM TOKYO CLASSIC
備前から東京へ帰る途中、岡山の街に立ち寄った。
岡山の街中にある喫茶店「東京」は、1958年(昭和33年)に開業した名曲喫茶店である。閑谷学校の講堂の前がテニスコートだった頃、東京タワーの完成にわくモダンな東京の雰囲気を岡山でも味わってもらおうと作ったのであろう。
今では、東京でもほとんど姿を消してしまった、むかしのモダンが味わえる貴重な存在になり、時代のめぐり合わせの皮肉を感じる。高い天井とゆったりした客席はホテルのロビーのように贅沢な空間で、年配者だけでなく、幅広い客層が利用している。
成田家 総本店 PUB NARITAYA
夜は岡山で長年庶民に愛されている大衆酒場、成田家の総本店へ。表の人影はまばらながら、店内のカウンターには常連客が入れ替わり来店して、座敷には宴会も入って繁昌している。
つまみは地元の名産のほかにオリジナルの名物料理、定番など、種類が豊富だ。串カツの玉ネギはやわらかくて旨味が凝縮して、昔ながらの手作りの揚げたてが懐かしく感じられる。
注文は備え付けのメモ用紙と鉛筆で書いて、せわしなく給仕する店員に手渡す。手渡すタイミングを見計らう適度な緊張感も大衆酒場ならではの醍醐味だ。
テレビの野球を野次る中年男たちが、キャラクター鉛筆を使って注文を書く姿は、どこかおかしくて、哀愁が漂う。これが消しゴム付の業務用鉛筆だと味気なく映るであろう。繁盛店にも、脇役のかくし味が生きている。