名画周遊:志摩半島・大王・安乗

TRIP TO MOVIE LOCATIONS
SHIMA,MIE PREFECTURE

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

小津安二郎監督は、お盆が明けると、映画を撮りはじめていた。物語も夏から秋にかけての設定が多い。

照れ屋だった小津監督は、その理由について多くを語っていない。

戦前はアメリカ映画のコピーばかりをしていたが、戦争を経験して、日本独自の映画を作ろうと想ったことが契機のようだ。

それ以来、真夏の日ざしや蝉しぐれ、ちゃぶ台で食事をする人々など、ロンドンやパリ、ニューヨークにはない、日本独特の風物が画面に登場するようになる。

とある新聞記者が、そのことを裏付けるため、小津監督に「なぜ、いい気候の時に撮らないんですか?」と、訊いたところ、小津監督は「いい気候の時は、遊んだほうがいいだろ」と、はぐらかしている。

波切漁港  NAMIKIRI HARBOR

小津監督が1959年(昭和34年)に撮った『浮草』は、真夏の港町を舞台にした旅芸人一座の物語である。映画は漁港の桟橋が映る場面からはじまり、ロケ地には志摩半島の大王崎にある波切漁港が使われた。

波切漁港の桟橋で、芸人一座の座長を演じる中村雁治郎が地元の青年を演じる川口浩と釣りをしながら芝居談議をする場面がある。

青年が芝居の出し物が古い、と言うと座長は「客が喜ぶからええんや」と答えるが、青年は「客さえ喜べば何でもいいのかよ」と、切り返す。

セリフはやや飛躍していると思われるが、芸術的な作風で客入りが少ないことを映画会社から批判された小津監督が、自分の想いを代弁させたのであろう。

大王崎 DAIOZAKI

港町に着いた一座は、荷解きを済ませると、舞台衣装に着替え、芝居のビラ配りのために、炎天下の町中を練り歩く。

実際に大王崎に行ってみると、娯楽施設は少なく、テレビやインターネットが無かった時代は、旅芸人の芝居もそれなりに需要があったことがしのばれた。

フェリーニの映画に出てくる旅芸人を観ていると、イタリアでも同じような背景があったことがうかがえる。

東洋一  SEAFOOD RESTAURANT TOYOICHI

「東洋一」は大王埼の燈台脇にある観光客向けの食堂である。看板の海女さんは、手と足の爪を赤く染め、歓迎の意気込みが感じられる。

さざえのつぼ焼き
焼きうに

昔の海の家のような風情が懐かしく、思わず、さざえのつぼ焼きを注文する。採れたてのうには、生だけでなく、他ではあまり見られない焼き物もやっていた。焼きうには、小さな粒の噛みごたえに塩味がにじみ、ビールと良く合う。

かつお丼

かつお丼は地元の郷土料理で、漁師の船上食が由来だそうだ。てこね寿司やかつお茶漬けなどの名称でもよばれている。

かつおは重みのある味わいなので、薬味や海苔が多めに使われている。半分食べた後は、お茶漬けにすることをすすめられた。

お茶漬けを食べていると、港のスピーカーから正午を告げる電子単音メロディが大音量で流れる。曲はポール・モーリアの『恋はみずいろ』であった。

安乗崎燈台 ANORIZAKI LIGHTHOUSE

大王崎から車で30分ほど北上した安乗崎にある燈台は、『喜びも悲しみも幾年月』(木下恵介監督1957年・昭和32年作)に登場する。

船の安全を守るため、全国の燈台をメンテナンスをしながら転々とする夫婦の半生記を、全国15カ所縦断ロケで綴る作品の中で、安乗崎燈台は1950年(昭和25年)の場面で使われた。

安乗崎燈台に飾られている撮影風景写真より

海岸から燈台への急な坂道は、今でも車が一台しか通れない狭い道で、燈台の建設や、撮影当時の苦労がしのばれる。映画の中の燈台は禿げ山に建っていて、半世紀の間に、松が生い茂ったことがわかる。

燈台守夫婦は安乗崎燈台の上から海を見おろしながら息子の大学進学について語る。

佐田啓二演じる燈台守は高峰秀子演じる夫人に「大学に行くとなると金もいるんだぞ」と、語ると夫人は「ええ、お金なんか欲しくありませんよ。子供に学問をつけさせるためなら。私たち、どんなまずい物だって満足してきたんですからね」と、答える。

その矢先、息子は事件に巻き込まれて命を落としてしまう。燈台の番で息子の死に目に会えなかった父親は、骨壺を抱えた帰路、「ただ、真じめ一点張りしてきた私たちに、こんなひどい報いをするなんて」と、運命の矛盾を嘆く。

この物語は実在した燈台守夫人の手記をもとに創作された。そこには、戦前と戦後を通じて黙々と働き、現代の基盤を築いた人々の姿が描かれている。