CINEMA TALK BAR
KAMINOGE,TOKYO
文/登地勝志 Essay by Katsushi Tochi
写真/織田城司 Photo by George Oda
天ぷら 天露 TEMPURA RESTAURANT TENTSUYU
残暑のきびしいある日、ふと、赤峰幸生氏に昔の映画館の話を聞こうと思い、赤峰氏と私の地元、東京都世田谷区の天ぷら屋「天露(てんつゆ)」にお誘いしました。
「天露」がある上野毛は小さな町で、なじみが無いと「かみのげ」と読めないかもしれません。上野毛は昭和初期の田園都市計画で発達した私鉄沿線の住宅地で、近くに映画撮影所もあったことから、 俳優も多く住んでいました。
「天露」は銀座の天ぷら屋で修業をした職人が上野毛で開いたお店で、今年で創業38年目になるそうです。
主人はいつも白衣の下にきちんとネクタイをしめて、店内をピカピカに磨き上げ、いかにも銀座仕込みといった風情です。
天ぷらの味も新鮮なネタと上品な衣で、下町の豪快な味とはちがう、山の手らしさを感じます。
天ぷらに合わせるお酒はワインをすすめていて、この日は山梨産白の辛口を選びました。気取っているわけではなく、そもそも天ぷらは南蛮渡来のものなので、ワインとよく合うのです。
お品書きにある「丸十(まるじゅう)」とは、かつての薩摩藩の紋のことで、このお店ではサツマイモの意味で使っています。
サツマイモの天ぷらは、一般的にはスライスして揚げることが多いけれども、このお店では一本丸々を10分ぐらいかけて揚げています。
石焼き芋のように、香ばしさと甘さが凝縮した味わいは他にはなく、このお店の名物のひとつです。
(登地)
赤峰さんは若いころ、映画を観た後は、
どのようなお店に通っていたのですか?
(赤峰)
「ジロー」だね。
(登地)
ジロー?
(赤峰)
私にとっての「ジロー」は、
寿司屋やラーメン屋ではなく、シャンソン喫茶です。
一日中シャンソンのレコードをかけている
「ジロー」という喫茶店があってね。
(登地)
どこにあったのですか?
(赤峰)
御茶ノ水です。私が通っていたのは1960年代はじめの頃です。シャンソンはこの他に、「銀巴里」というお店に行って美輪明宏のライブを聴いたりしていました。ちょうど『ヨイトマケの歌』が発売されたばかりの頃でした。当時は東京オリンピックと前後しながら街も国際色ゆたかになっていきました。海外旅行は夢の時代だったので、洋風のお店に通っては異国情緒を味わっていました。
(登地)
アメリカ物ではどのようなお店に?
(赤峰)
ペギー葉山のジャズボーカルのライブをよく聴きに行きました。ご本人がやっていた「ペギー」というお店があって、間近で聴くと迫力があって、感動したものです。
60年代も後半になって、学園紛争の時代になると、当時の世相史では、新宿のフォークゲリラの話がでてくるけれども、私が当時の新宿で印象に残っているのは、「CHECK(チェック)」というお店です。
新宿三丁目の末広亭界隈の地下にあった立ち席のお店で、なぜかいつも満員電車のように混んでいて、店内に流れるリズム&ブルースやソウルといった黒人音楽に合わせて気ままに踊っていました。今考えると、後のディスコやクラブの前身みたいなものでした。
裕福な家の友達がアメ車のタウナスを乗り回していたので、みんなで乗せてもらっては、横浜まで遊びに行きました。
(登地)
小林旭の『自動車ショー歌』の世界ですね。
(赤峰)
うん、そんな感じかな。
ビストロ&カフェ アズール BISTRO & CAFE AZUR
二件目は軽めに、「天露」から歩いてすぐのカフェ「アズール」のオープンテラスにしました。テラスではお店の犬が出迎えてくれました。
(登地)
1960年代はどちらの映画館に行かれていたのですか?
(赤峰)
実家があった学芸大学駅の商店街にあったユニオン座とか、渋谷の東急文化会館かな。登地さんが子供の頃は、スパイ映画が流行っていたと思うけれども、私が子供の頃は西部劇が全盛でした。
まだ玩具なんか売ってない頃だったので、使わなくなった黒革の学生鞄をバラして、ガンベルトを作って遊びに使っていました。
次に映画館に来たのはヒッチコックです。『ダイアルMを廻せ!』は初公開時(1957年・昭和32年)にリアルタイムで観ていました。
(赤峰)
グレース・ケリーがカーテンの後ろから襲われるシーンが怖くてね。悪役のレイ・ミランドも渋くて格好良かった。
ヒッチコックは、故国のロンドンがナチスの爆撃で壊滅状態になって、戦後もしばらくは映画が撮れなかったから、アメリカのハリウッドに渡って映画を撮っていて、これはその頃の作品です。
今、改めて観ると、男優はレイ・ミランドをはじめ英国人でかため、みんなネクタイをきちんとしめて、英国のジェントルマンズクラブのような気品と、ヒッチコックの望郷の想いが感じられて、ストーリーとは別の味わいがあります。
(登地)
私が若いころ、故郷の滋賀県彦根の町では、雑誌が東京の記事ばかりだったので、バーのバーテンがファッションや地域の情報発信役をしていて憧れたものです。
(赤峰)
わかりますよ。でも、私が若かった頃は、あふれてくる海外の大衆文化を受け入れるのに精一杯でした。バーで語るというより、喫茶店でモダンな洋楽を聴きながら雰囲気に「ひたる」楽しみ方が多かった。お店でしゃべっていると「うるさい」と怒られたりしてね。ひたすら何時間も黙って「ひたる」のです。
私が昔のことを語るのは、単なる懐古趣味ではなく、自分をリセットするために「ひたる」お店が少なくなったことへの危機感からです。
昔のお店は安っぽいつくりで、シャンソンのレコードなんか乾いた音だったけれども、お店には「ひたる」空気感がありました。
戦後、いち早く海外の視察に出かけた人たちは、
本場のエンターテイメントや飲食店のサービスに感動して、
日本に帰ると一生懸命伝えようとしました。
単なる西洋かぶれではなく、感動の熱伝導師たちです。
今では私もお店の監修を手がけることが多くなりました。若い店舗開発責任者と話し込むのは、いきなり設計図ではなく、出し物の感動の根っ子がどこにあるのか、それを伝えようとする熱意が関係者と共有できているのか、などです。なぜならば、中途半端な出し物と熱意でお店を開けば、関係者全員のエネルギーが無駄になってしまうからです。
私はいつも店舗開発責任者のありかたを、路上のシンガーソングライターに例えて説明しています。
どうしても聴いてもらいたい曲があって、路上でギターをかき鳴らしても、最初は聴衆が2,3人しか集まらないかもしれません。
でも、出し物に感動があって、それを伝えようとする熱意があれば、演奏会を続けるうちに聴衆が増え、会場も徐々に大きくなっていくものです。
責任者が心ここにあらずで、大きな会場を満員にしようと思っても、上手くいかないのです。