酒場シネトーク:新宿三丁目

CINEMA TALK BAR : SHINJYUKU SAN-CHOME, TOKYO

エッセイ 登地勝志 Essay by Katsushi Tochi
写真・文/織田城司 Photo & Text by George Oda

スタイリストの登地勝志さんが酒場で映画を語る連載エッセイ『酒場シネトーク』。今回は東京の新宿三丁目で、高倉健さんの思い出を語ります。

江戸の宿場町の面影

新宿三丁目交差点にある追分交番

江戸時代、二つの街道が別れる場所を追分と呼んでいました。今も各地に追分の名残りがあります。追分は街道の要所として、古くから宿場町が栄えました。

宿場町で年季奉公する女給や遊女たちは、仕事の辛さや孤独をまぎらわすために、「追分節」と呼ばれる民謡を口ずさむようになり、各地に土着の追分節がありました。

美空ひばりの名曲『りんご追分』は、津軽地方の追分節を題材に、現代の歌謡曲として創作された曲です。洋楽にも労働者から生まれた音楽があり、アメリカのブルースもそのひとつです。

新宿三丁目交差点

新宿三丁目の交差点は、青梅街道と甲州街道の追分跡地で、近くの交番やバス停に追分の名が残っています。江戸時代は大きな宿場町で、品川、千住、板橋と並ぶ、江戸四宿のひとつでした。

戦後は焼け跡の更地から再建。駅前は高層化が進んだけれど、新宿三丁目の商店街は、小さくて味のある店が軒を連ね、昔の宿場町を思わせる風情が残りました。

新宿三丁目の商店街

そんな新宿三丁目の商店街に異国情緒を感じる外国人も少なくありません。ハリウッドはいち早く目を付け、1965年に往年の名優ケイリー・グラントを主役に迎えたコメディ『歩け走るな!』のロケに使いました。

物語はケイリー・グラント演じる英国人実業家が来日して、東京オリンピックの競歩に出場するアメリカ人選手の恋愛を手伝う展開で、新宿三丁目の商店街は競歩コースの一部分として登場します。

異国の地で感じるカルチャーショックや不安感の演出に、新宿三丁目の商店街が持つ混沌感に白羽の矢が立ったわけです。

『歩け走るな!』DVD(1966年作)

ロケは当時の新宿三丁目の商店街をカラー映像で捉えた貴重な資料です。今は無くなってしまった往時の建物を偲ぶことができます。

そのひとつは、新宿通り沿いにあった「新宿東映会館」です。今の新宿マルイ アネックスの場所で、シネコンのように映画館が集まり、東映以外の映画も上映していました。映画の中では、ケイリー・グランドが新宿三丁目の商店街の要通りを歩く場面の背景に大きく映ります。

新宿三丁目 要通りから新宿東映会館跡(現新宿マルイ アネックス)を望む

新宿東映会館の看板には当地公開されていた東宝系の『血と砂』(1965年作・監督/岡本喜八・主演/三船敏郎)と『喜劇各駅停車』(1965年作・監督/井上和男・主演/森繁久弥)の2本が見られます。

商店街のお店はほとんど変わってしまいましたが、今と同じ姿で映るのは寄席の「末廣亭」です。当時から現在まで、マニアの需要に応えながら、細々と営業を続けてきたことがわかります。

新宿三丁目 寄席「新宿 末廣亭」
新宿三丁目の商店街
新宿三丁目の商店街
新宿三丁目の商店街

オールナイトの殿堂

新宿テアトルビルから靖国通りを望む

東京で仕事を探すために、故郷の滋賀県彦根市から上京したのは1979年でした。初めて就職したのはファッションアパレルの『ニコル』です。営業として丸井のヤング館や新宿マルセルといった店舗を担当しました。

当時はディスコブームで、新宿で仕事を終えると、ディスコに繰り出していました。よく通ったのは、新宿テアトルビルにあった『ツバキハウス』です。流行りの曲はシックの『グッド・タイムス』や、ア・テイスト・オブ・ハニーの『今夜はブギ・ウギ・ウギ』などでした。

シック『グッド・タイムス』シングルレコード(1979年作)
ア・テイスト・オブ・ハニーと同名タイトルのLPレコード(1978年作)

ディスコのファッションは、レコードのジャケットに見るように、フォーマル度が高い夜会服のようなデザインが主流でした。ファッションアパレルもそんな洒落者たちの気分を先取りする服を提案して、後のDCブランドブームを牽引しました。

ディスコのフロアの演出で印象に残っているのは、ブラックライトです。暗闇の中で蛍光ホワイト染料を使った衣料品のみを青白く発光させる特殊なライトで、点灯すると踊っている人の白いシャツや白いソックスだけが動いて見えるので、異次元にいるような感じを覚えたものです。

新宿テアトルビルから靖国通りを望む

ディスコで盛り上がると、いつも終電を逃してしまい、始発が動くまで寝ないで粘りました。そんな時に重宝したのが、オールナイトの映画館です。当時はまだ新宿東映会館があり、そこで始発を待ちました。

ここは60年代、高倉健さんの任侠映画のオールナイト上映が学生運動を支持する若者にヒットして、時代の空気を象徴する場として聖地化しました。1979年に私が通った頃は、すでに任侠映画のブームが去った後で、松田優作が主演した『蘇る金狼』(1979年作・監督/村川透)などを観ていました。

世界堂から隣接する新宿東映会館跡(現新宿マルイ アネックス)を望む
新宿東映会館跡(現新宿マルイ アネックス)から新宿通りを望む

先輩から教わった名店

鳥料理「鳥源」外観
鳥料理「鳥源」外観
鳥料理「鳥源」外観
鳥料理「鳥源」内観
鳥料理「鳥源」内観

新宿三丁目に行くと、いつも立ち寄るのは鳥料理の「鳥源」です。めまぐるしく変わるビルの谷間で、戦後間も無く開業した頃の面影を残し、そこだけ時間が止まっているかのようです。

焼き鳥はどれも大きめの肉を長めの串にたっぷり刺し、食べごたえがあります。それぞれの肉は旨味と肉汁が充満して、しっかりした味わいです。じっくり焼かれた肉の表面は焦げ目が少なく、揚げ物のようにサクッとした仕上がりで、炭より肉の香ばしさを強く感じます。中はじっくり火が通り、脂が程よく落ちて、モタれが少ない後味です。

鳥料理「鳥源」 つくね
鳥料理「鳥源」 あいがも
鳥料理「鳥源」 皮
鳥料理「鳥源」 もろきゅう
鳥料理「鳥源」 わかどり
鳥料理「鳥源」 米焼酎 メロー コズルエクセレンス 小ボトル

私がこのお店を知ったのは、職場の先輩が連れてきてくれたからです。1979年当時は『ぴあ』などのエンタテイメント情報誌は広まりつつありましたが、グルメ雑誌や街角情報誌はほとんどありませんでした。

このため、街の名店情報は先輩から後輩へと伝承されていました。後輩は先輩が連れていってくれるお店を楽しみにして、先輩もそれに応えるべく、情報を仕入れたものです。

とはいえ、若者に不相応な高級店ではありません。給料日に少し無理をすれば手が届く、庶民のうまいもの屋でした。やがて、情報技術の発達で、こうした伝承文化は風化していきました。

鳥料理「鳥源」 ももねぎ間
鳥料理「鳥源」 冷やしトマト
鳥料理「鳥源」 しいたけ
鳥料理「鳥源」 手羽先
新宿三丁目の商店街

マニアが開拓する市場

バー「ル・パラン」外観
バー「ル・パラン」内観
バー「ル・パラン」内観
バー「ル・パラン」内観
バー「ル・パラン」内観

バー「ル・パラン」も先輩から教えていただいたお店です。映画『ゴッドファーザー』の世界観で演出した店内は、映画好きには魅力的な空間です。

バーの楽しみは雰囲気が大きな要素を占めます。ここは暗めの照明やクラシック音楽などで、雰囲気づくりが半端ではなく、マフィアのボス気分に浸ることができます。

バー「ル・パラン」内観

店内には、マシンガンの模型も飾ってあります。おそらく日本のモデルガンメーカーMGC社製のものと思われます。本物はアメリカのトンプソン社が1930年代に生産したモデルで、40連発のドラム式弾倉が特徴です。

ドラム式の弾倉は持ち運びに不便なことから、第二次世界大戦時にスティック式に改良されました。このため、ドラム式のトンプソンマシンガンは、ギャングが暗躍した1930年代を象徴して、その時代を描く映画には欠かせない小道具になっています。

バー「ル・パラン」内観

今から20年ほど前、そんなトンプソンマシンガンに憧れて、実際に撃ったことがあります。グアム島に実弾射撃ができる施設があり、友人と連れ立って射撃ツアーに出かけました。

射撃場ではまず銃を選んで、それに合う弾を購入します。私はトンプソンマシンガンを選んで、銃弾を500発購入して、2日間かけて撃ちました。

バー「ル・パラン」内観

射撃場に備え付けてある平板の射的は、当たっても穴があくぐらいでリアクションが少なく、次第に飽きてきます。このため、標的用に缶コーラやスイカをスーパーで調達して、当たった時のはじける感じを楽しみました。

大の男がグアムに行っても海に入らず、マシンガンを撃ち、変な奴と思われたかもしれませんが、趣味の世界なので、人それぞれの楽しみ方があっても良いと思います。

バー「ル・パラン」内観
『新網走番外地 大森林の決斗』DVD(1970年作)

健さんの映画で、新宿が印象的に映るのは『網走番外地』(1965年作・監督/石井輝男)です。敵対する組のボスを斬りに行く回想シーンで、夜の街を足早に歩く場面です。

『網走番外地』はヒットするとシリーズ化が決まり、7年間で18本製作されました。この時代のシリーズはキャラクターのアイコンを明確にして差別化する傾向にありました。このため、決めセリフや衣装が創造され、様式化したのです。

『新網走番外地 大森林の決斗』DVD  裏ジャケットに見る健さんの蛇腹式ブーツ

健さんの『網走番外地』シリーズの衣装も様式化していました。ラストシーンで刑務所から脱獄して、悪のボスを退治する時は囚人服ではなく、どこから調達したのか、ボトムスは白い綿パンに黒ブーツ。トップスは白い七分袖のダボシャツか紺のTシャツ。これを基本ベースに、冬場は革ジャンやトレンチコートを羽織り、白い綿パンの素材をコーデュロイに変えて季節感を出していました。

そんな健さんを見て憧れたのは黒いブーツです。当初はサイドゴア式やサイドジップ式でしたが、1966年頃から蛇腹式にたどり着いて定着しました。健さんは蛇腹式のブーツがよほど気に入ったのか、1972年に『網走番外地』のシリーズが終了しても、他の作品でこのブーツを使い続け、1976年に東映から独立するまで愛用しました。

高倉健さんが主演した『ゴルゴ13』(1973年)のDVD

小林稔侍さんも東映時代は健さんの影響で蛇腹式のブーツを使っていました。当時の様子をお聞きすると、このブーツのアイデアは健さんが発案して、それを受けた東映の衣装部が出入りの仕立て業者に頼んでカスタムメイドしていたそうです。

馬に乗った時の見栄えが良く、足首のホールド性が高いことから、東映生え抜きのアクションスター、千葉真一や谷隼人にも愛用されました。

『ゴルゴ13』DVD裏ジャケットに見る健さんの蛇腹式ブーツ

自分も蛇腹式のブーツを履きたいと思いましたが、残念ながら同じデザインのブーツの既製品はどこにも売っていませんでした。

知人とそんな話をしていると、渋谷にオーダーブーツの専門店が有ると聞き、早速訪ねました。

登地勝志さんがカスタムメイドで再現した健さん仕様の蛇腹ブーツ。

ブーツを発注する時は、健さんの写真集『憂魂』を持ち込み、店員に健さんがブーツを履いている写真を見せ、デザインの説明をしました。

すると、店員は「わかりました。こんなデザインですね。」と言って、その場で確認のデザイン画を描きながら採寸してくれました。

横尾忠則編 写真集『憂魂 高倉 健』 1971年発行初版 登地勝志さんの所有
登地勝志さんがカスタムメイドで再現した健さん仕様の蛇腹ブーツ

出来上がったブーツは大事にメンテナンスしながら20年間愛用しています。健さんの気分になりたい時は、白い綿パンに合わせます。トップスはさすがに白いダボシャツというわけにはいかないので、クラシックな白シャツを合わせています。

コスプレは極めると、街中で浮いてしまうことがあります。自分としては、そこまで見せないで、わからない程度に薄めて楽しんでいます。

新宿三丁目の商店街

今の男服の物づくりは、最初から商品がたくさん売れることが至上命令で、毎週月曜日に幹部が集まってノートパソコンを開き、皆で売れ筋情報を確認しながら進めることが主流になりました。

でも、時にはマニアが開拓することも必要だと思います。最初は少数派かもしれませんが、新しいものを生み出すエネルギーがあります。なぜなら、マニアは好きなものに突き進み、他人の目など気にしないからです。同じ趣向の人にはすごくウケます。

あとは周りの人が徐々に数量に結びつけていく土壌を作れば良く、昔の現場には、そんな雰囲気がありました。

登地勝志がカスタムメイドで再現した健さん仕様の蛇腹ブーツ

高倉健さんとスタイリストの仕事でご一緒させていただいた時、東映時代の蛇腹式ブーツのことを尋ねたことがあります。すると、健さんは「ああ、あのブーツね。すごく履きやすかったんだよ」と答えてくれました。

新宿三丁目で、そんなことを思い出しながら夜明けを迎えると、どこからともなく始発電車に向かう人々が湧いてきました。その数の圧倒的な多さに新宿らしさを感じます。

青白い空の下、虚ろな目で追分を漂う人々には、スローなブルースがよく似合う。

新宿三丁目の路上
新宿三丁目の路上