TRIP TO MOVIE LOCATIONS
OMOKAGEBASHI,TOKYO
写真・文/織田城司 Photo Essay by George Oda
いま、流行歌は映画から生まれることがあるが、そのむかし、流行歌から映画が生まれる時代があった。
1973年(昭和48年)、フォークグループかぐや姫の『神田川』がミリオンセラーになると、映画会社各社は映画化権の争奪戦を繰り広げた。
東宝は権利を獲得すると、1974年(昭和49年)に出目昌伸監督のもと、草刈正雄と関根恵子の共演で『神田川』を映画化した。
すると、日活は負けじと、同じ年、藤田敏八監督のもと、秋吉久美子主演で、同じく、かぐや姫のフォークソングから、『赤ちょうちん』と『妹』を、相次いで映画化した。
当時、若者たちは、学園紛争の挫折感にオイルショックの時代背景が重なり、等身大の生活感情を歌うフォークソングに共感をおぼえはじめていた。
映画のロケ地も、それまでの青春映画に多かったハワイや葉山といったマリンリゾートから、神田川沿いの安アパートへと変わっていった。
神田川は井の頭公園の湧き水を源泉とする川で、東京都内を西から東に横断して隅田川に合流する。
映画『神田川』は、原曲の作詞を手がけた喜多條忠が書き下ろした同名小説を原作として、神田川の中でも、喜多條忠が学生時代に暮らした高田の馬場界隈を舞台に描かれている。
甘味と食事 一乃瀬 MEETING ROOM ICHINOSE
都電荒川線の早稲田駅前にある喫茶店「一乃瀬」は、昔ながらの喫茶店の雰囲気が残っている。夫婦で切り盛りしていて、主人は厨房で腕をふるい、夫人は店先で大判焼きを焼きながら出来上がった料理を給仕する。
昔はどこの学生街にも、こうした家庭的な喫茶店があったものだが、いつの間にか、チェーン店やコンビニばかりになった。
2階のテントには、学生サークルが部活で使うのか「ミーティングルーム」の表記がある。店内には学生が卒業記念に店に寄贈したサークル会員の集合写真が飾られている。撮影年は1980年代のものが多く見られる。
映画『神田川』の中で、大学生を演じる草刈正雄と出版社で働く女性を演じる関根恵子は、ふとしたことで知り合い、関根恵子が暮らす小さなアパートの部屋で同棲生活を始める。
関根恵子は草刈正雄に「ねえ、今夜何が食べたい?私、お買い物して帰るから」と訊き、草刈正雄は「そうだな、うーん、ハンバーグ」と答えると、関根恵子は「またア?」と、あきれた顔をする。
「一乃瀬」のメニューを見ていたら、そんな場面を思い出したので、チーズハンバーグ定食を注文した。メニューの脇に書き添えられたおすすめ文句「おいしさに思わずチーズ(目玉焼き付)」に押されたこともある。
ハンバーグは、油が盛大にはねる鉄板とともに出てくる。
学生が「これで午後の授業と、部活と、バイトは大丈夫だ」と感じるのに、十分な内容だ。
面影橋 OMOKAGEBASHI
現在、神田川には140の橋がかかっている。その中でも、面影橋は小さな橋だが、名前の印象に雰囲気があるので、70年代のフォークソングブームの頃、学生の感傷を象徴するかのように使われた。
映画『神田川』の中で、草刈正雄と関根恵子が同棲するアパートは、面影橋の近くに設定されていて、映画の中には、都電の面影橋駅や、窓の下に神田川を見るアパートが映る。
フォークグループNSPは、面影橋の夕暮れの情景を歌ったタイトルもズバリ『面影橋』という曲を1979年(昭和54)に発売している
寺山修司は自分の小説を自ら監督した映画『書を捨てよ 町へ出よう』(1971年・昭和46年作)の中に、主人公の青年が都電の面影橋駅の線路上を走る場面を挿入している。寺山修司も学生時代に高田の馬場で暮らしたことがあり、面影橋のあたりには思い出があったのであろう。
現在、面影橋近くの神田川沿いには木造アパートは無く、鉄筋コンクリートのマンションが建ち並んでいる。
高田の馬場まで歩いてみたが、神田川沿いはどこもビルばかりで、四畳半フォークの世界は残っていなかった。
山吹の里の碑 STELE OF YAMABUKINOSATO
面影橋のたもとにある山吹の里の石碑は、室町時代の武将で江戸城を築城した太田道灌(1432〜1486)の故事にちなんでいる。故事のあらましは以下の内容である。
ある日、太田道灌は山吹の花が群生する早稲田の山村に鷹狩りに出かけ、突然の雨に濡れながら城に帰る。
出迎えた側近が
「鷹狩りはいかがでしたか?」と訊くと、太田道灌は、
「いやー、まいったよ。突然、雨が降ってきてさ。面影橋のあたりの民家に飛び込んで雨よけの蓑(みの)を貸してくれ、と頼んだら、中から少女が出てきて、黙って山吹の花を一輪差し出すだけなんだよ。まったく、言葉もわからないのかよ、と思い、ムッとした態度で『じゃあ、いいよ』と言って、ずぶ濡れで帰って来たんだ」
と答えると、側近は、
「あのー、それって和歌の古典じゃありませんか?和歌の古典に『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』という歌があって、きれいなだけが長所で、あとは何の役にも立たないことを山吹の花が実を付けないことを例に歌ったものです。
少女は、家に蓑(みの)が無く、お役に立てなくて申し訳ない、という気持ちを山吹の花一輪に託すのと同時に『実の』と『蓑(みの)』の韻をふんだのではないでしょうか。なかなか風流な女の子じゃないですか」
と答えた。
すると太田道灌は「そうか…」と言って肩を落とし、古典を知らず、少女の気持ちに答えられなかった自分のことを素直に恥じた。
それ以来、太田道灌は和歌の猛勉強をして、和歌の道でも大成するようになった。
後に、面影橋界隈の村人たちは、太田道灌にまつわる地元の美談を語り継ぐため
石碑を建てようと考えた。
村人たちは、お金が無かったので、観音像が彫られている供養塔を再利用して山吹の里という文字を彫り足し、石碑として建て直した。
供養塔は江戸年間の貞享3年(1686年)作で、5代将軍、徳川綱吉の時代のものである。数百年にわたり、天災や戦火に耐えながら、村人たちの心を今に伝えている。
東京染めものがたり博物館 TOKYO SOME MONOGATARI MUSEUM
山吹の里の碑の近くにある「東京染めものがたり博物館」は、江戸時代の武士が公務で登城する時に身につけた裃(かみしも)に使われた東京染め小紋の工房を見学用に解放している施設である。
特に資料が整理されて展示してあるわけではないが、昔ながら製法で、今も和装用の生地を作り続ける工房は、そのものが生きた博物館といえる。
工房内は生地を染める作業に使う長い板が数枚置かれ、天井から吊られた棚にもスペアの板がたくさん収納されている。そのせいか、かがまないと歩けないぐらい天井が低い。
主人に天井が低いことのわけを尋ねると、「さあ、昔の人は背が低かったからだろ」という答えであった。
江戸時代、染め職人たちは、ほかの道具を作る職人たちと同じく、浅草界隈の下町に集まっていた。
明治の近代化で川の汚れが目立つようになると、染め職人たちは良質な水を求めて、神田川をさかのぼるようになった。
博物館を運営する富田染工芸が面影橋の近くで工房を開設したのは大正3年(1914年)のことである。当時の20歳男性の平均身長は、資料によると160㎝とある。
染色の水洗いの工程は、昭和38年(1963年)まで神田川を使い、それ以降は地下水をくみ上げて使っているそうだ。
染色に使う特殊な道具は、デパートや画材屋では売ってないので、手作りということになる。ビニールテープや樹脂製のボウルといった現代の道具も巧みに取り入れているところが面白い。
工房の中は、まわりのビル街の喧騒がうそのように、時間の流れがゆっくりと感じられる。
できあがった東京染め小紋の生地には1ミリ以下の小さな丸い紋が無数に広がる。柄の際立ったエッジと深い発色は熟練した手仕事によるものである。簡潔さと鋭い切れ味のなかに、江戸らしい粋が感じられる。
面影橋の界隈には、昭和の面影は残っていないけれども、江戸の面影はかすかに残っていた。