TRIP TO MOVIE LOCATIONS
SHUZENJI SPA TOWN,SHIZUOKA PREFECTURE
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
修善寺温泉は、伊豆半島で最古の温泉とされている。
その歴史は古く、今から1,200年前の平安初期、弘法大師が修善寺を建てた時に温泉も開いた故事にもとづく。
鎌倉時代には源氏の興亡の舞台になり、明治時代には文士や日本画家に愛用され、湯治場として広く知られるようになる。
戦後の高度成長時代をむかえると、団体旅行ブームで押し寄せる観光客の量に合わせてホテルや旅館、民宿などが建てられた。
やがて、平成初期にバブル経済が崩壊して観光客が減少すると、所々に廃業した宿泊施設の抜け殻が残された。
映画『お茶漬けの味』(小津安二郎監督1952年・昭和27年作)に登場する東京の山の手に暮らす有閑マダムたちは「天気がいい」という理由だけで、突如家庭をほったらかして修善寺温泉に出かけてしまう。
有閑マダムを演じる木暮実千代は、亭主で商社の部長を演じる佐分利信との夫婦仲は倦怠期で、些細なことが目障りになっている。
ある日、佐分利信は食卓でお茶漬けをすすっていると、木暮実千代は「あなた、そんなご飯の食べ方よして頂戴」と怒って自分の部屋にこもってしまう。
佐分利信は女中に「奥さんに叱られちゃった」と、言いながら、ごはんに汁をかけて食べると「うまいんだがな…」と、ぼやく。
そんなマダムたちが修善寺温泉で泊まる宿のロケ地として使われたのは、老舗の「新井旅館」である。
「新井旅館」は1872年(明治5年)に修善寺で創業する。以来、昭和初期にかけて建てましされた館内設備の15か所が登録文化財に指定されていることから文化財の宿とよばれている。
「天平風呂」とよばれる大浴場壁面の岩石は、もとから地盤にあるものを使い、巨大な柱は樹齢2,000年を越える台湾の巨大檜を無垢で削りだしたもので、今では入手困難な建材である。湿気を逃がす工夫も随所に取り入れられているので築80年ながら、腐食はほとんど見られない。
湯船につかった座位の目線に広がるガラス窓は水槽ではなく、半地下にある浴室から庭の池の水中を見る仕掛けで、自然光がそそぐ奥行きの広い視界は優雅なくつろぎ感を演出する。
「渡りの橋」とよばれる斜面は、自然の地形を生かして建てた建物の段差をバリアフリーでスムーズに移動できるように工夫されたもので、橋の斜面をゆるやかに見せるために、欄干の高さを端と端で意図的に変えて、だまし絵効果をねらい、床板は隙間を開けて地面を見せることで視線を拡散している。
中庭の巨大なケヤキは樹齢800年をこえるもので、もとからこの地に生育している木を生かして建物を配置している。
中庭に面した回廊は自然の景観を見渡せるように広めのガラス面が採用され、大正時代に作られたガラスの手作り感ある凹凸が景観を味わいある表情に見せている。
回廊の床材の一部に墨色の遠州瓦が使われているのは、その先に広がる「華の池」をより明るく見せるための工夫である。
「華の池」の上には水上コテージ風の客室棟がある。土台の礎石にはコンクリートよりも水の浸透に強くて安定感がある天然石が使われている。
天然石は大きさや角度が異なることから、その上の建物を水平に保つためには、熟練工の手間をかけた技術が使われたけれども、そのおかげで、今日も現役の客室として稼働している。
映画『お茶漬けの味』に登場するマダムたちは、池の上の「桐三の間」という窓に手すりのついた最上級スイートルームに陣取り、放歌放談の宴会で盛り上がる。
翌朝は二日酔いになりながら、池の鯉を自分たちの亭主に見立てて悪口を言い、餌を投げ与えて笑い転げている。
戦後、様変わりする女性像をいち早く描いた場面で、復興期の貧しかった庶民の度肝を抜く豪遊シーンに、贅を尽くした旅館のロケが生きている。
「新井旅館」では明治の頃、芸術に造詣の深い経営者が来客をもてなすため、名匠や名工を招いて館内設備の造作に創意工夫を凝らした。
その建築に宿る自然や手仕事を感じさせる普遍性は、団体旅行のブームが去っても、
時代を越えて来客を魅了する財産になっている。
夕食は温泉街の居酒屋「まつ家」に出かける。地元の酒屋の5代目が20年前に酒屋の隣ではじめた飲食店である。
店内壁面の並ぶガラス扉の冷蔵庫の中には酒瓶がアイテム別に並び、いかにも酒屋の中で飲んでいるという感覚だ。
酒の注文はメニュー表の活字で選ぶよりも直接冷蔵庫の中の酒瓶の雰囲気を見て味の好みを相談しながら選ぶことをすすめている。
ビールは、日本酒で有名な八海山を手掛ける酒造の黒ビールとのクオーターによる八海山泉ポーターの辛口と、コクのある修善寺の地ビールがおすすめになっている。
店内では主人が酒の解説をしながら給仕をして、奥さんが料理を作り、二人の娘さんが手伝いながら家族でせわしなく切り盛りしている。
季節の天麩羅は塩コブがかかった、おつまみ仕様で、甘くてやわらかいフキノトウに一足早い季節の到来を感じる。
油とり紙は日めくりカレンダーの裏紙で、主婦が物を大切にして再利用していた時代を思い出す。
主人に地酒の辛口が飲みたいと相談して、選んでもらった静岡県産「喜久酔」の吟醸。素朴なグラスの丸みが、酒の口あたりと合う。
主人は最近素泊まり客の来店が増え、常連グループも少なくない、と語る。利き酒の楽しみもあると思うが、いつの間にか都心の商店街から消えてしまった、家族の温かみが感じられるお店の雰囲気も魅力なのであろう。
温泉街の夕食は旅館のおまかせコースも悪くないが、自分の足で土地の味をめぐる楽しみがあってもよい。
仕上げに注文したお茶漬けは、木の器に、おろしたてのワサビが香る、修善寺らしい味わいであった。