名画周遊:駿河台界隈

TRIP TO MOVIE LOCATIONS
KANDA-SURUGADAI,TOKYO

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

ニコライ堂 Nicholai Cathedral

東京の神田駿河台界隈には江戸時代に武士が多く住み、文武を教える塾が集まったことが現在の学生街の起源となる。

映画に登場するランドマークではニコライ堂が印象深い。1891年(明治24年)にロシア人宣教師ニコライが当時のロシア領事館の管理地にロシア正教を布教するシンボルとして建てた大聖堂である。

江戸東京博物館にはニコライ堂が完成した当時の駿河台界隈を再現した25分の1の縮尺の模型が展示されている。遠景正面に見える海は東京湾の芝浦海岸で、現在のレインボーブリッジの位置にあたる。

ニコライ堂付近の大きな屋根の建物は武家屋敷の跡地で、明治維新後の国際化を見据えた英語塾や大学の始祖にあたる教育機関に利用されていた。

当時は東京中からニコライ堂が見えた、といわれる時代背景がよくわかる展示だ。当時のカメラでも遠くが鮮明に写せたことを考えると、空気も澄んでいたのであろう。人々の情緒にも印象を残し、夏目漱石の『それから』の一節にも登場する。

映画では戦後相次いで公開された小津安二郎監督作品『麦秋』(1951年 昭和26年)と成瀬巳喜男監督作品『稲妻』(1952年 昭和27年)にニコライ堂の尖塔が高くそびえる姿が映る。奇跡的に東京大空襲の戦渦を免れた聖堂は復興の象徴のようである。

ニコライ堂はその後、高度成長時代に高層ビルの乱立で埋もれるとお茶の水駅からも見えなくなってしまった。

小津監督や成瀬監督と同じアングルでニコライ堂を撮影しようとすると背景に高層ビルが入ってしまい、風情が出てこない。

現在、東京中から見える建物を作ろうとするとスカイツリーほどの高さが必要になった。

『麦秋』に登場する原節子と『稲妻』に登場する高峰秀子はともにニコライ堂の近所の喫茶店を訪れる。学生が安価で利用できる飲食店や物販店が集まっていることは当時も今も変わりがない。

江戸時代の東京では、海や川などの水辺に近い地域は水害が多く、地代が安かったことから山の手に対して下町と呼ばれた。

駿河台下は文字通り下町として栄え、神保町には古くから学生相手の書籍商が集まり、現在は世界最大の古本街へと発展した。街並や店頭に見る新旧の顔は意外な発見があり、学者やコレクターではなくても楽しめる。

神保町古本街 Jinbocho Used Book Town

笹巻けぬきずし Sasamaki-kenuki-sushi

駿河台下のビルの谷間にひっそりとたたずむ笹巻けぬきずしは、うっかりすると見逃してしまいそうな間口だが、1702年(元禄15年)に創業した折詰鮨の老舗で、池波正太郎や小津安二郎監督のグルメ本でも紹介された名店である。

笹巻鮨は戦国時代の武士が抗菌作用のある笹の葉に飯を包んで兵糧とした故事から着想を得て独自に開発されたものである。

冷蔵庫の無い時代にネタや飯を日持ちさせる工夫として、手間ひまかけた酢漬けや塩漬けの技術が用いられた。

笹巻鮨は当時の旗本や諸候が贈答用に利用する高級品であった。後に鮨を日持ちさせる手間を省き、即席で鮨を提供する形式が広まったことが現代の握り鮨のルーツと言われている。

店内装飾より

店内には江戸時代の店内の様子を描いた絵が飾られている。来店した旗本や諸候たちは、職人が魚の小骨を毛抜きを使って取り除く作業を見て「面白きことよ」と感動され、「笹巻鮨」に「毛抜き」の愛称を加えて呼ぶようになったことが名称の由来だそうだ。

折詰の包みをめくると次々と現れる江戸のグラフィックと笹の香りは芝居の幕や舞台装置のように、食べることの楽しさを演出する。

ネタの魚類は鯛と海老に季節の白身魚と光り物の4種で、いずれも強めの酢漬けである。海老をすりつぶして火を通しながら味つけした「おぼろ」は甘辛い味。卵はクレープのような外観と食感ながら甘さを控えめにして香ばしさが強調されている。のり巻きの中味のかんぴょうは佃煮のように醤油色になるまで煮つめられ、やわらかい食感と強めの辛口が口の中で広がる。すし飯は日持ちさせる工夫から、おはぎのように粘りのある作りになっている。

どれも濃い味で醤油を付けなくても味わえるほどである。昔の技術の継承が現在の個性になっている。貴重な体験ができる生きた文化財の存在はありがたいことである。

駿河台界隈には効率と革新を求める山の手の顔と、古本屋や毛抜鮨など、江戸の頃からの文化を地道に続ける下町の顔がある。どちらも日本人の顔で、共存することも日本的である。