THE TOWN WHERE YASUJIRO OZU LIVED PART3
TAKANAWA,TOKYO
写真・文/織田城司 Photo & Essay George Oda
小津安二郎監督は1923年(大正12年)、20才の時に映画監督になることを目指し、親戚の縁故で蒲田の松竹撮影所に就職して、撮影助手として修行を積む。この時は父親が住む深川の家から蒲田の撮影所に通っていた。
24歳で監督として一本立ちすると、その後手がけた作品『生まれてはみたけれど』(1932年、昭和7年作)、『出来ごころ』(1933年、昭和8年作)、『浮草物語』(1934年、昭和9年作)が、3年連続でキネマ旬報ベストワンに選ばれる快挙を成し遂げる。
後年、小津監督は当時の心境を「評論家からほめられた写真はお客が入らないと相場が決まっている。だから、評論家からベスト・テンをもらっても、会社ではすこしもいい顔をしない。かえってあいつは評論家の機嫌ばかりとってる、お客のことを考えないといわれ、ぼくなど自分の写真がベスト・テンに入ると、撮影所に顔が出せなかった。なんだか悪くて、所長に挨拶できないんです。当時から比べれば、日本映画も進んだし、観客の眼も肥えましたね」と、述懐している。その頃、小津監督の父親は息子の出世を見届けるように狭心症で急死する。
1936年(昭和11年)、小津監督は母親と弟とともに高輪の借家に転居する。転居の要因は松竹撮影所が蒲田から大船に移転して深川から通うのが不便になったことと、当時の深川は地盤が低くて大雨のたびに浸水することに閉口して、父の死を契機に売却したことなどが考えられる。高輪の地を選んだ背景は、初期の小津映画の常連だった女優の飯田蝶子が高輪に住んでいて、近所の空き家を紹介したことが契機とされている。
品川は江戸の頃より東海道五十三次の第一の宿として栄えた。現在の品川駅は当初海岸しかなかった場所で、いわゆる品川宿として栄えた町は品川駅よりも少し横浜よりの御殿山のふもとにあった。
品川駅前に広がる高輪台は、江戸時代に諸藩の別荘地として利用され、明治の頃になると皇族の別荘や貴族の屋敷が建てられた。その後は民間に払い下げられ、戦後はホテルが建ち並び現在に至る。小津監督が住んでいた借家は現在の品川プリンスホテル裏の水族館のあたりにあったそうだ。
お屋敷町だった高輪界隈は明治以降の歴史遺産はいくつか見られるが、それ以前の代表的施設は高山稲荷神社であろう。品川駅高輪口の国道15号線沿いのウイング高輪の並びに肩身を小さくして建つけれども、起源は約500年前とされる。昔は国道15号線から北は海岸で、高山稲荷神社の鳥居は、房総半島から品川を目指す船の目印になっていたそうである。
神社は長い歴史の中で何度か改修され、かつて海のあった方角を見つめる狛犬の石像には慶応元年(1865年)奉納の刻印が見られる。無名の職人たちが作った木彫りの狛犬も木目の生かし方が上手く日本人の手仕事の質の高さを感じる。
当時の高輪は繁華街ではなく、歴史や自然を堪能して散策する場所も少なかったことから、小津監督は買い物や飲食を楽しむために日本橋界隈に出かけていた。
晩年の小津監督は古きよき日本に回帰していくが、若い頃の小津監督はアメリカ映画の影響で都会のモダニズムに憧れ、映画の中にもスーツを着こなすモダンボーイやモダンガールを登場させていた。
そこで今回は、若き小津監督が昭和初期に見たと思われる、高輪から日本橋界隈にかけてのモダンな西洋建築を探訪する。
小高い尾根道の交差点で異彩を放つ高輪消防署は、1908年(明治41年)に現在の場所に木造の消防署が建てられ、昭和8年に現在の鉄筋コンクリート地上3階建に建て替えられた。
受付で見学を申し出ると、男性署員の担当者が館内を案内してくれた。説明によると、設計は越知操が手がけ、ドイツ表現主義の技法を取り入れ、船と円をモチーフに全館のデザインがまとめられているそうだ。言われてみると、成る程船だったのか、と目から鱗が落ちる思いがした。
館内では窓や手すり、ライトの細部にも円形デザインが取り入れられている。バルコニーの手すりには、実用とは無縁だが船のディティールを取り入れた遊び心のあるパーツも見られる。
停電の時の非常灯として使われたガス灯は
当時流行のアールヌーボー調のデザインが取り入れられている。
高輪消防署の交差点から国道1号線に下りてから見えてくる桜色の洋館は明治学院大学の記念館である。神学部校舎兼図書館として、アメリカの様式を取り入れて建てられたもので、現在は礼拝堂、歴史資料館、事務所として使用されている。
撮影の許可を得るために、事務所に行くと「学生でこの建物に興味を示して見学を希望する人はほとんどいません。卒業後しばらくして歴史的価値を実感してから見学来る方が多いです」と言われた。
小津監督は映画に使う小道具や衣装、自分の身の回り品は当時舶来品の扱いが多かった日本橋界隈の小売店で調達していた。明治屋の本社兼店舗のある京橋のビルもそのうちの一件である。
ちょうど小津監督がキネマ旬報ベストワンを3年連続で受賞していた頃に、イタリア・ルネサンス様式を取り入れた最新トレンドビルとして開業した。同ビルは地区の再開発による改修のため一時休業して、2015年(平成27年)を目処に営業を再開するそうだ。
ビルには明治屋直営のレストラン部門「中央亭」が運営する洋食レストランがあり、小津監督も買い物帰りに何度か利用していた。近年は「京橋モルチエ」という屋号で営業を続けていた。
メニューを見ると、人気No.1 ハンバーグ・ショパール風(意:馬に乗った天使)。人気No.2 チキンカレーとあり、この他に海老カツ特製ソース付きなどと続き、あれこれ迷う。
ハンバーグ・ショパール風は、ハンバーグをオーブンで加熱して、途中で一度オーブンから出して生卵を乗せ、さらに加熱をすることで「馬に乗った天使」の部分を完成させるそうだ。ご飯によく合う日本の洋食は、本場の洋食とはひと味ちがう独立したジャンルである。
かつてのモダンを訪ね、博物館明治村へも足をのばす。東京駅前広場にあった派出所は、東京駅舎と調和をとるように英国調赤煉瓦のデザインが採用されてる。
現在の迎賓館赤坂離宮のもとは時の皇太子(大正天皇)の住居として建築家の片山東熊がパリのヴェルサイユ宮殿を設計の参考にして建てられた。門の前の衛兵舎も同様のデザインで調和をとられた。現在は簡易なデザインのタイプに建て替えられている。
小津映画『お茶漬けの味』(1952年、昭和27年作)のエンディングで鶴田浩二と津島恵子がデートの途中で赤坂迎賓館前の衛兵舎に入って遊ぶシーンがある。この場面で映るのは、この丸窓の初代衛兵舎である。
現在の北里大学のルーツで細菌学の研究者北里柴三郎が港区白金台三光町に建てた研究所の本館。当初の本館は北里が学んだドイツの研究所からドイツ・バロックのデザインと研究室に日中の光線の変化が少ない北向きの採光を取り入れる設計が踏襲された。
小津監督が見たモダン洋風建築は、明治初期の見よう見まねの擬西洋ではなく、欧米で留学経験を積んだ人の目で監修された本場のバランスを踏襲するものが多い。デザインは時代とともに見え方が変わり、最先端から陳腐化、再評価、復刻などの推移をくり返すことが面白い。
小津監督時代の新大橋は、重厚な鉄橋にアールヌーボー調の装飾を取り入れたこのモデルであった。新大橋のたもとの深川にゆかりのあった小津監督は生涯のこの鉄橋を何度も渡った。
戦時下の時代になると小津監督は高輪から出兵して中国やシンガポールの戦地で戦う。高輪に残された小津監督の母親を笠智衆が訪ねて疎開をすすめると、
「私がいなくなったら、安二郎はどこへ帰ってくるのですか」といって聞かなかったそうだ。1945年(昭和20年)終戦間際、いよいよ東京の空襲が烈しくなると、小津監督の母親は娘の嫁ぎ先がある千葉県の野田市に疎開した。
幕末から明治にかけて欧米列強と結んだ通商条約の中に燈台設置の項目があり、品川燈台はフランス人技術者の手を借りて御殿山ふもとの海岸に建てられた。戦後は港湾の再開発による埋めたてのため移築された。明治のはじめから激動の時代の荒波を照らし続けた品川燈台は明治村の静かな湖畔で余生を送っている。