HIRADO HARBOR,NAGASAKI PREFECTURE
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
長崎県の平戸島は、車で一時間もあれば一周できてしまう小さな島で、海岸線には定期便の港と小さな漁港が点在する。
ところが、日本史における存在は大きく、古くは遣唐使の寄港地として栄え、織田信長や徳川家康の頃には、大航海時代のポルトガルやスペイン、オランダ、イギリスの船が次々と訪れる。やがて、鎖国とともに静かな港街にもどった。
近年は歴史と文化を生かしたまちづくりを目指し、観光に注力している。昨年は鎖国時代に取り壊されたオランダ商館を博物館として復刻した。
オランダ人は1609年の平戸来訪から鎖国までの約30年間、港に貿易商館を構えて根をおろした。付近には当時の史跡も数多く残る。この商館を復刻することで、その点と線がつながった。
オランダ人より先に訪れたポルトガル人やスペイン人は海賊の域に近く、宗教のすすめかたも強引で、平戸人と紛争が絶えず撤退していった。後から来たイギリス人は、たまたまバイヤーの手腕が低く10年で商館を撤収した。宗教よりも商業を重んじ、学問や技術も持ち合わせていたオランダ人は時代のめぐり合わせで平戸人とは相性がよかった。
1564年、イギリスに生まれたウイリアム・アダムスは、大航海時代のオランダの貿易会社に船乗りの専門家として雇われる。貿易会社は1598年、東洋に向けてウイリアム・アダムスを含む130名を5隻で送り出す。一行は途中で乗組員の病死や暴風雨などで離散した。約2年後に日本に着いたのはたった1隻で、最後まで残ったウイリアム・アダムスを含む24名の乗組員のうち6人は日本に着いた途端に死んだ。
この報を聞いた徳川家康は、その不屈の精神をいたく気に入り、ウイリアム・アダムスを世界学と貿易の顧問にして、日本中どこへでも寄港しても良いという文書に徳川の朱印を押して持たせた。
ウイリアム・アダムスは平戸を中心に活躍し、母国に帰ることなくこの地に骨を埋めた。その墓石は、切支丹保護の嫌疑を邪推した藩によって隠滅された。後にウイリアム・アダムスの運命を哀れんだ人々によって、正確な位置がわからないまま碑文が立てられた。
佐世保の絵師が18世紀に描いた外国人絵巻の中にオランダ人も登場する。細部まで丁寧に描かれた仕事は、現在の紳士服雑誌で頻繁に見られる外国人の着こなし特集の始祖的存在だ。
オランダ人が平戸の殿様に献上した少年用の上着はペルシャ製の絹の地紋織りを使い、デザイン細部には現在のジャケットの原形が見られる。開閉部はカフスボタンに見られるような、紐を編み込んで球体を2個連結したボタンを使用している。
平戸人はこの商館で荷物の上げ下げを手伝いながら、西洋文化を吸収していった。
オランダ商館があった時代に作られた石の護岸壁は現在も残る。石を積み上げる時には、おそらく平戸人も手伝ったことであろう。
同じく、オランダ商館があった時代に作られた石の井戸。落下防止の柵からのぞくと、内部の石の隙間に生えた雑草の合間からわずかに光る水面が見える。
鎖国でオランダ人が去った後に、オランダ人から憶えた石を加工する技術で日本人が作った橋も現存する。日本人の学習能力と技術を感じる史跡だ。
オランダ商館から殿様の屋敷に向かって続く街道は、ウイリアム・アダムス(後の三浦按針)の眠る跡地や、幕末に吉田松陰が兵学を教えるために投宿した跡地などの歴史がつまっている。マリア像に瓦屋根がかぶる喫茶店の和洋折衷感が印象的である。すれちがった地元の小学生から「こんにちは」と挨拶された。観光地といえども、店内ならともかく路上で挨拶されることは滅多にない。長い間お客様をむかえてきた土地の風土を感じる。
高倉健主演映画「あなたへ」が8月25日から公開される。妻の遺言で遺骨を散布する為に各地を移動するロードムービーの最終目的地は、平戸大橋を渡ってたどり着く、オランダ商館の真うらにある薄香という小さな漁港であった。ロケで地元の人々にお世話になった高倉健は、何とか恩返しをしようと映画館の無い街ながら、平和文化センターに映写セットを持ち込み、完成上映会を開いた。