男服の記憶 第1話 父のコート

MEMORIES OF MEN’S WEAR

エッセイ/赤峰幸生 Essay by Yukio Akamine
写真/織田城司 Photo by George Oda

バージョン 2

親が子に身づくろいを教える服育。近年、日本人の服装が乱れていることを憂いて、服育の大切さを説いてきたけれど、ふと、自分はどのような服育を受けてきたのだろう、と思い返したことが、この連載エッセイ「男服の記憶」を始めた契機です。

内容は、戦後の紳士服飾史の断片を私的な体験をもとに綴るもので、すぐに役立つ着こなしノウハウが書かれているわけではありませんが、「いま」という時代を知るための参考にしていただければ幸いです。

How have I been educated to wear clothes? Since when? By whom? One day, this thought has flashed across in my mind, I started this essay for my record.

I will write a piece of the history of postwar gentleman’s outfitting based on my personal experience, I feel so happy if this is useful for you to know the modern times.

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子供の頃の記憶をたどるために、親が作ってくれたアルバムを紐解くと、兄のアルバムは生後すぐの写真から始まるけれど、次男の私のアルバムは生後7ヶ月の写真から始まります。そのことを友人に話したら、同じような経験を持つ人が多かったので、内心ホッとしました。

その生後7ヶ月の写真は、私を撮りたくて撮ったものではなく、一家で記念写真を撮る「ついで」があったからです。撮影場所は目黒の碑文谷にあった生家の門前で、私を抱いた母と、兄の手を握る父の4人が、緊張した面持ちでレンズをにらんでいます。

アルバムの付記には「昭和20年(1945年)3月17日 熊本へ疎開の朝」と、書いてあります。時はあたかも東京大空襲の真っ只中で、東京の中心部は猛火で壊滅状態になり、目黒にも空襲の被害が広がり始めた頃でした。一家は取るものもとりあえず、乳飲み子の私を抱え、父の実家がある熊本に疎開する日の朝、焼失するかもしれない家を惜しみ、友人に頼んで記念写真を撮ってもらいました。結局これが、私にとって最初の写真になったのです。

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熊本 Kumamoto Prefecture

バージョン 2
阿蘇 Mount Aso
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阿蘇  Mount Aso
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阿蘇  Mount Aso
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父の実家があった熊本県菊池市旭志 Kyokushi Village

父の実家は熊本県の阿蘇山のふもとで、今は菊池市に編入された旭志(きょくし)村にありました。一家は東京を脱出する人たちでスシ詰めになった列車に乗り込み、西へと向かいます。おそらく当時は、空襲警報のたびに止まる列車を乗り継いて実家にたどり着くまで、丸々3日ぐらいかかったと思います。

それから5ヶ月後、父に召集令状が届く前に、戦争は終わりました。一家は疎開先で玉音放送を聴いたのです。ようやく1歳になる私の記憶に、その時の残像は無いけれど、おそらく原風景には埋蔵されているのでしょう。

I still keep several albums of my childhood period carefully.   One photo shows my father , mother, my elder brother and me (seven months old) in my mother’s arms. “March 17, 1945 Morning of the day to evacuate to Kumamoto”. This sentence is captioned to this photo.

After this photo shoot, our family took refuge to my father’s parents’ home in Kumamoto.

I have heard that it took more than 3 days from Tokyo to Kyokushi, the village which was located downhill of Mount Aso. Five months after, the war was over.

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熊本県菊池市旭志  Kyokushi Village
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熊本県菊池市旭志  Kyokushi Village
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熊本の郷土料理だご汁。だごとは熊本弁でだんごのことで、味噌味の汁に手でちぎっただごと野菜を入れたもの。Dagojiru
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熊本城。天守閣は再建されているが、基礎の部分は慶長12年(1607年)に創建した当時のまま現存している。Kumamoto Castle
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熊本城  Kumamoto Castle
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熊本城  Kumamoto Castle
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熊本城  Kumamoto Castle
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熊本城  Kumamoto Castle
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夏目漱石内坪井旧居。夏目漱石は明治29年(1896年)、熊本の第五高等学校に英語の教師として赴任する。4年3ヶ月の熊本勤務の間に賃貸住宅を6件住み替え、熊本城に近い内坪井の賃貸住宅は5件目にあたる。Soseki Natsume Uchitsuboi Old House
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夏目漱石内坪井旧居。夏目漱石の旧居で同じ場所に残って記念館になっているのは全国でもここだけ。宮崎駿監督のアニメ映画『風立ちぬ』に登場する日本家屋のモデルとしても使われている。Soseki Natsume Uchitsuboi Old House
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夏目漱石内坪井旧居  Soseki Natsume Uchitsuboi Old House

父の実家で、祖父は地主として農地を管理して小作人を抱えていました。祖父は明治維新の地租改正で地主の将来に不安を感じていたのか、父には地主を継ぐことよりも、学問をすすめました。父は学問が好きだったらしく、地理の研究に没頭します。やがて、父は地理学者になるべく上京して、碑文谷に土地を買って家を建て、そこが私の生家になりました。

終戦をむかえると、一家は疎開先の熊本から東京に戻ります。幸いにも、碑文谷の生家は空襲で焼け残りましたが、貧しい世相には変わりありませんでした。父は学者の収入では一家をまかなうことができなかったので、定収入を得るために農林省(現農林水産相)に勤務し、自宅の空いた部屋を下宿人に貸して生計を立てました。

ほどなく、GHQが農地改革を発令すると、父は農林省の役人として改革を推進します。命令のためというより、以前から地主と小作人は独立して、お互いに自己完結すべき、と思っていたのです。そして、自らの手で実家の生業だった地主を解体していきました。

My grandfather used to manage the farmland as a landowner, however, he recommended his son (my father) to continue his education, and my father was devoted to geography.

Afterward, he moved to Tokyo to be a geographer and built his own house in Himonya, the place where I was born.

To get additional income, he worked for the Ministry of Agriculture and Forestry and to get additional income.

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夏目漱石内坪井旧居  Soseki Natsume Uchitsuboi Old House
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夏目漱石内坪井旧居 Soseki Natsume Uchitsuboi Old House
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夏目漱石内坪井旧居  Soseki Natsume Uchistuboi Old House
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夏目漱石内坪井旧居  Soseki Natsume Uchitsuboi Old House

その頃の父の格好は、外出する時は三揃いのスーツ姿で、家に帰ると和服に着替えていました。小津安二郎の映画に出てくる一家の主人の格好そのもので、それは当時特別なものではなく、役所や企業で勤務する人は誰もが着ていた基本的なものでした。父は私が小学校に入学すると、古くなって端がほころびてきたコートを仕立て屋に持ち込み、子供用のコートに仕立て直してくれました。

当時は、モノを大事にしていたというより、モノが無かったので、有るモノを大事に使わざるを得なかったのです。今世紀に入り、いつの間にかモノが余るようになり、今は身の回りのモノを最小限にして、モノを捨てることが提唱されるようになりました。これからの服は、モノが無かった時代のように、汎用性のある服を着まわす術や、親から子へ継承できる服のありかたが見直されてくると思います。

My father wore three-piece business suit whenever he went out, and once he come home, he changed clothes to Kimono just like the master of a family who appeared in the film of Ozu Yasujiro. When I entered the elementary school, he took his old overcoat to the tailor to remake it to my small overcoat.  At the time it was so common to inherit something from parents to children.

These days we just use and throw away so many things. We should handle things more carefully and should use them for a long time.

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夏目漱石内坪井旧居  Souseki Natsume Uchitsuboi Old House

私が成人する頃、父は脳梗塞で倒れ、私の就職や東京オリンピックを見る前に他界しました。父の死化粧のために髭を剃ってあげたことが唯一の親孝行になりました。

父は生前、私が服飾業に進路を決めたことについて、反対しませんでした。父がそうであったように、どうせ苦労するなら、本人が好きな道に進むほうが良いと思ったのでしょう。

父は口に出して言いませんでしたが、戦争で苦労をして、子供たちに同じ苦労をさせまいと復興を推進するうちに新しい産業が生まれ、人々の顔に笑顔がもどると喜んだのではないでしょうか。それは、私の父だけでなく、当時の人は皆そのように感じていたと思うのです。

Before I became 20 years old, my father passed away for brain infarction. I regret that he was not there when I found a job and he could not see Tokyo Olympic of 1964. I remembered clearly that I shaved his moustache in his deathbed after he had gone.

He did not say anything, but I felt his warmth to let me do my favorite things. As well as my father, almost Japanese thought that the new industry would help people laugh again after the war.

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夏目漱石内坪井旧居  Souseki Natsume Uchitsuboi Old House

碑文谷 Himonya Town

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生家の最寄駅、東急東横線学芸大学駅前の商店街  Gakugeidaigaku Shopping Street
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生家の最寄駅、東急東横線学芸大学駅前の商店街  Gakugeidaigaku Shopping Street
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碑文谷公園  Himonya Park
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碑文谷公園 Himonya park
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碑文谷公園  Himonya Park

生家は東急東横線の学芸大学駅から徒歩10分ほどの場所にあり、近所には碑文谷公園がありました。子供の頃は、碑文谷公園に遊びに行くのが日課で、池に生息している亀を見るのが楽しみでした。

ある日、家の庭で亀を飼おうと思って公園の池から一匹持ち帰ると、母親から「返してきなさい!」と叱責されたので、泣きべそをかきながら亀の甲羅に黄色いペンキで「幸生」と書いて、公園の池に戻しました。今でも碑文谷公園を訪ねると、池をのぞき込んで、名入りの亀がいないかと見渡すのです。

The house where I was born was located from Gakugeidaigaku Station (Toyoko Line) and was near by Himonya Park. There were a lot of different kinds of fish thriving in the pond of this park. Especially I really liked turtles and I went to see them every day.

One day, I picked up one turtle and come home with it. Can you imagine how intensely my mother got angry to see me and a turtle? I returned it to the pond tearfully but I painted my name Yukio with a yellow paint on its shell before I went to the pond. I still look for a turtle with my name when I visit Himonya Park.

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碑文谷公園  Himonya Park
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生家跡地の前に立つ My Birthplace
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昭和20年(1945年)3月17日、熊本へ疎開の朝、生家の門前で母に抱かれて  March 17,1945 Morning of the day to evacuate to Kumamoto

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