TRIP TO MOVIE LOCATIONS
NAKANOSHIMA,OSAKA
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
「結婚て、こんなことなの?まるで女中のように朝から晩までお洗濯とご飯ごしらえであくせくして…」原節子演じる主婦は、上原謙演じる亭主に愚痴を言う。
倦怠期の夫婦の葛藤を描いた映画『めし』(成瀬巳喜男監督1951年・昭和26年作)の一場面である。
夫婦は上原謙が務める証券会社の転勤で大阪に暮らす。ある日、上原謙は島崎雪子演じる東京の姪が訪ねてきたので、遊覧バスで大阪見物に連れて行く。バスは大阪駅から大阪城に向かう途中、土佐堀川と中之島を渡る。
バスガイドは土佐堀川の川端にオフィスビルが立ち並ぶ風景を「このあたりの一帯は大阪の代表的な風景のひとつに数えられております」と紹介して、中之島公園を「肩を並べて仲良く歩みを運ぶ、プロムナードのひとつでございます」と紹介している。
上原謙は北船場の堺筋を走るバスの中で島崎雪子に、勤め先の証券会社は大通り沿いではなく、街中にあると説明している。
この一帯は古くから銅や薬を取引する商人の町として栄え、明治以降は大阪を代表する経済の中心地として西洋建築のビルがたくさん建てられた。
空襲の被害が少なかったことから、今でも当時の建物が点在して、現役のテナントビルとして活躍している。レトロビルの表面は手の込んだ装飾に、時を経た表情が加わり、独特の存在感がある。
映画『めし』の中で、夫婦が住む長屋の老婦人を演じる浦辺粂子は息子が道修町の製薬会社の求人に申し込んだら、3人募集するところ280人の応募があり採用されそうもない、と原節子に嘆いている。
物語の設定とされている戦後から6年目当時は就職難で、雇用の拡大は1950年代後半からはじまる高度成長時代まで待たなければならなかった。
オフィス街の発展とともにビルの谷間には、ビジネスマンが必要とする物を扱う小さな商店や飲食店が広がった。昔ながらの商店の表情も味わい深い。
オフィス街の中でひときわ目立つ純和風の建物は1880年(明治13年)に創業した大阪市立愛珠幼稚園である。現在の園舎は1901年(明治34年)に銅取引所跡地に移転して建てたもので、現存する日本最古の木造幼稚園として重要文化財に指定されている。
愛珠幼稚園正門前にある「やなぎ」は、1918年(大正7年)に創業した大衆割烹の老舗である。
「やなぎ」の名物「台抜き」は、カツ丼から台(ご飯)を抜いて別に出すカツ煮定食のことで、ご飯のおかわりをしたい働きざかりのビジネスマンのために考案されたそうで、いかにも大阪らしいメニューだ。
カツ煮はやわらかい豚肉と、甘さを控えめにして出汁をきかせた味付けで、ご飯とよく合う。
かつての「やなぎ」は、厨房が見渡せる広いフロアの中で三角巾にかっぽう着姿おばさんがせわしなく給仕をして、地域のビジネスマンの社員食堂のような活気があったけれど、高度成長時代が過ぎ、再び就職難の時代をむかえるとビジネスマンが減少してきたことから、4件あった店舗を幼稚園前の1件に集約して営業を続けている。
淀屋橋のたもとの料理屋「かき広」の母屋は牡蠣船とよばれる屋形船で、1920年(大正9年)から土佐堀川の同じ場所に浮かび続けている。
牡蠣船とは、牡蠣の産地広島から牡蠣を積んで行商に来て、都心の川端に停泊しながら船内の座敷で牡蠣料理を振る舞う船のことである。
映画『浪華悲歌(なにわエレジー)』(溝口健二監督1936年・昭和11年作)の中に牡蠣船が登場する場面がある。
山田五十鈴演じるホステスは道修町の製薬会社社長の愛人としてモダンな高級アパートに囲われていたけれども、社長夫人にばれて別れると、新たなパトロンを求めて進藤英太郎演じる証券会社幹部を牡蠣船で接待する。
この牡蠣船の停泊する川端には、かつて中座の向かいにあったキャバレー赤玉のネオンサインが映っていることから、ロケ地は道頓堀であろう。当時は道頓堀川でも牡蠣船が頻繁に見られた。
「かき広」の牡蠣船が映るのは『大阪の宿』(五所平之助監督1954年・昭和29年作)で、東京から大阪支店に左遷され、土佐堀川沿いの旅館を社宅がわりに使う保険会社社員を演じる佐野周二が馴染の芸者を演じる乙羽信子に私的な関係を断る場面の背景に使われている。
現在の「かき広」の牡蠣コースは、先付、ゆで牡蠣の酢味噌あえ、牡蠣の酒蒸し、牡蠣鍋、牡蠣ごはん、牡蠣ごはんの茶漬け、季節の果物など、ほとんど牡蠣づくし。
メインの牡蠣鍋は甘辛い白味噌仕立て。鉄なべの形は映画『浪華悲歌(なにわエレジー)』に映るものと変わらぬままである。
歩けばギシギシ音がして、なんとなく傾いているような座敷の中でいただく牡蠣は、
他にはない味わいだ。究極の専門店は、時代を越えて浮遊している。