TRIP TO MOVIE LOCATIONS
KITASHINAGAWA,TOKYO
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
踏切に行くと、首からカメラを下げた小学生が2人立っていた。小学生は、八ツ山鉄橋の下を通過する新幹線やJR線には目もくれず、八ツ山鉄橋の上を、のんびりやって来る京浜急行電鉄(以下京急)を夢中で撮影していた。
私の目的は、八ツ山鉄橋であった。八ツ山鉄橋は1933年(昭和8年)、京急がJR線をまたぐために建てられたもので、特に建築遺産というほどの歴史はないが、数々の名作映画に登場する由緒を持つ。監督たちを魅了した背景を探訪するため、八ツ山鉄橋がある北品川の町を歩いた。
京浜急行電鉄 八ツ山鉄橋
アメリカのサミュエル・フラー監督が1955年に手がけた『東京暗黒街 竹の家』は、東京で暗躍するアメリカ人犯罪組織と潜入捜査官の戦いを描いたアクション映画。
当時の日本をカラーでとらえた映像は貴重な資料になっている。ロバート・スタック演じる元軍人は横浜港に着くと、タクシーで友人の米兵が暮らす東京に向かう。「彼は東京に向かう」というナレーションとともに、タクシーが映るのは京急北品川駅前である。
画面に映る木造の北品川駅と2両編成の京急は、前時代を思わせるが、緑色の八ツ山鉄橋は、今と同じ姿で感慨深い。タクシーが渡る八ツ山橋は、今より一代前のアーチ型のもので、「WELCOME TO TOKYO」という白い切り文字が貼られている。この文字は実際のものか、撮影用に付けたものか不明だが、いずれにせよ「ここから、いよいよ東京だ」と思わせる演出に使われている。
ゴジラが最初に壊した建物は、八ツ山鉄橋である。以後、60余年にわたる破壊活動の全ては、ここからはじまる。
第一作『ゴジラ』(本多猪四郎監督1954年作)の中で、ゴジラは品川の海岸から東京に初上陸する。八ツ山鉄橋付近で東海道線の線路を横切ると、走って来た上り列車が足に当たる。
ゴジラはそれが攻撃されたものと思ったのか、急に凶暴になり、脱線した列車を口にくわえて放り投げ、目の前にあった八ツ山鉄橋を地面からもぎ取ると、胸元でバラバラにして、鉄骨をまき散らす。ゴジラは鉄橋に「八つ当たり」して気が済んだのか、その日は一旦海に帰る。
コメディタッチの異色時代劇『幕末太陽伝』(川島雄三監督1957年作)は、映画が始まってタイトル文字が映り、音楽が流れると、すぐに八ツ山鉄橋が大映しになる。
時代劇の背景になった北品川の町を、現代の立地で解説する趣向に登場するもので、地域を限定する目印のひとつとして八ツ山鉄橋が使われている。
旧東海道
京急八ツ山橋踏切から西に向かうと、狭い通り沿いに、北品川の商店街が広がる。
この狭い通りは、旧東海道である。北品川界隈は、旧東海道とは別の場所に広い道路が作られたので、旧東海道がそのまま残っている。
旧東海道の7メートルの道幅も江戸時代のままだ。車は一方通行で通行量が少ないので、のんびり歩いて、江戸の旅人気分に浸ることができる。
曲がりくねった道と高低差は、かつて、道路の南側が海岸だった頃の名残りで、見通しは良くないけれど、「この先に何があるのだろう」と、つい歩いてしまう情緒がある。
北品川の町は、かつての東海道五十三次第一番目の宿場、品川宿の現在の姿である。
巨大なビルが建ち並ぶJR品川駅界隈は、明治時代に鉄道の駅が作られてから発達した町で、江戸時代は、ほとんど何も無い海岸だった。
品川宿は、江戸を起点にした第一の宿とすると、西から見たら、江戸の玄関口にあたる。
サミュエル・フラー監督がそのことを知っていたのかは不明だが、
『東京暗黒街 竹の家』の中で、主人公が東京入りする場面に、北品川駅を使ったのは、歴史的には、意味がある選択といえる。
ゴジラが最初に八ツ山鉄橋を壊したのは、「玄関が突破されたら、いよいよ東京が危ない」と思わせる効果があり、二度目の東京上陸で、銀座や国会議事堂を破壊する恐怖を倍増させている。いきなり銀座ではなく、北品川から壊しはじめるところに、江戸の伝統を思わせる奥ゆかしさがある。
土蔵相模跡
川島雄三監督は、品川宿を江戸の町外れと見たのであろう。『幕末太陽伝』では、品川宿に実在した「土蔵相模」という遊郭を中心に、武士や遊女、町人などが登場する群像劇を描いている。
遊郭、後の赤線地帯といわれる娼館街は、江戸時代に発祥してから1958年(昭和33年)に売春防止法が施行されるまでの約350年間、政府による公営事業であった。税金を使っての事業ゆえ、人目をはばかるように、町外れに作られていた。
「土蔵相模」は、品川宿を代表する大きな遊郭「相模屋」のことで、外壁が土蔵のようなナマコ壁だったことから「土蔵相模」の通称で親しまれていた。間口は狭いけれど、奥行きは広く、中には長い廊下がいくつもあった。
幕末は攘夷派の志士たちが身を隠す定宿として使われていた。品川宿は江戸の町外れだったので、幕府の目をのがれて、謀反を企てるには好都合だった。
「土蔵相模」は幕末に焼失した後、明治時代に、貸座敷「相模楼」として再建する。いわゆる連れ込み旅館、今のラブホテルのことである。その後、外装をモルタルに変え、屋号を「さがみホテル」に改称。1982年(昭和57年)に老朽化から廃業して、現在、跡地にはマンションが建っている。
川島監督は『幕末太陽伝』の撮影にあたり、スタジオに実物大の「土蔵相模」をそっくり再現した。
建物の基本設計は、撮影当時現存していた「さがみホテル」に実地検分に行って、間口や奥行きなどを測量してセットに生かしている。下足札や火鉢、徳利などの小道具は、江戸時代の図版をもとに、江戸末期の骨董品が残っていれば、取り寄せて使った。
品川橋
品川橋は、旧東海道の北品川町と南品川町の境を流れる目黒川に架かる橋で、江戸時代は木造であった。
『幕末太陽伝』の撮影セットでは、「土蔵相模」のほかにも、江戸時代の木造の品川橋や、旧東海道の町なみの一部が再現されている。
権現山公園
北品川の町から西に連なる小高い丘は、明治になって鉄道の開通で分断された御殿山のふもとにあたる。
この地にある権現山公園は、もとは東海寺の境内で、明治時代は国有地になっていたが、1918年(大正7年)に品川町に払い下げられ、公園として開園する。
御殿山には幕末、建築中の英国大使館があり、1862年(文久2年)、「土蔵相模」から繰り出した高杉晋作を中心とする志士たちの焼き討ちにあっている。
『幕末太陽伝』の中でも、その模様が描かれ、高杉晋作を演じる石原裕次郎は「土蔵相模」の部屋の中で、集まった志士たちに焼き討ちの必要性を、
「単に異人館を焼くというのではない。安政の屈辱的な調約に火をつけるのだ。敵に備えて膨大な費用をかけた品川湾の台場も、御殿山からは一望であるではないか」
と説いている。
権現山公園は、そんな御殿山の面影を今に伝えている。
品川台場(御殿山下砲台跡)
1853年(嘉永6年)、ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、翌年、東京湾の数カ所に、砲台用の台場を設置した。台場は実戦に使用されることなく、一部を残して明治時代に埋めたてられた。
御殿山下砲台の跡地は、台場小学校になっている。近年、台場の石垣が出土したことから、小学校前には、その石を使った記念碑と明治村に移築保存された品川燈台のレプリカを建て、幕末や維新の舞台となった町の歴史を語り継いでいる。
北品川の横丁と建物の風情
川島監督は『幕末太陽伝』の中に、実在の地や史実を散りばめた意図について多くを語っていない。
もし、監督に尋ねても「遊びですよ」と、冷笑的にはぐらかされそうだが、物語の真実味と現代との接点を演出するもので、その主題は、町人のエネルギーと思われる。
「土蔵相模」で働く町人を演じるフランキー堺は、高杉晋作を演じる石原裕次郎から刀を向けられると
「どうせ旦那方は、百姓、町人から絞り上げた金で、やれ攘夷だとか、勤皇と騒ぎまわってりゃ済むが、こちとら町人は、そうはいかねんだい!てめえひとりの才覚で世渡りするからには」
と反撃している。
川島監督が映画の中でフランキー堺に語らせた町人気質は、監督自身の思い入れが感じられ、現代にも通じるものがある。
北品川の町は、空襲の被害が少なく、町なみには、戦前の銅板建築や土蔵が混じり、むかしの下町情緒が色濃く残る。
横丁や商店には、かつて川島監督が品川宿に託した町人の活気が、今でも息づいているようだ。
天ぷら 豊樹
宿場町では土地の名産を味わうのも楽しみだ。江戸時代の品川宿では、沖合で獲れる新鮮な魚を使った料理や、浅草海苔の名称で売られた海苔が名産だった。
現在の北品川の町では、伝統の名産品に加え江戸の屋台から発達した料理のひとつ、天ぷらを扱う店が多く見られる。
「豊樹」の天丼は、天ぷらの衣がうすく、甘さを控えたタレが、かためのご飯にたっぷりとかかり、江戸前の基本をおさえながら、繊細な味を特徴としている。
北品川橋
台場小学校に近い、北品川橋の親柱は、1923年(大正12年)に建てられたもので、年季が入っている。
『ゴジラ』の第一作の中では、ゴジラの再上陸に備えて住民が避難する場面があり、
ロケには北品川橋が使われ、この親柱と船宿の間をたくさんの人々が足早に移動する様子が映っている。
北品川橋は「土蔵相模」のちょうど裏側にあたり、江戸時代には橋はなく、海岸だった場所で、帆掛け船が行き交っていた。
『幕末太陽伝』の中で、フランキー堺は「土蔵相模」の客から「お前、さっきから妙に悪い咳ばかりしてんじゃないか」
と指摘されると、
「俺は、まだまだ、生きるんでい!」
といって、海を見ながら、旧東海道を横浜方面に旅立つ。
この「生きるんでい!」というセリフは、難病を抱え、長生きできないことを悟っていた川島監督自身の生死観といわれている。
『幕末太陽伝』の公開から6年ほど経ったある日、川島監督は酒を飲んで自宅に帰り、本を読みながら就寝し、翌朝そのままの姿勢で、死体となって発見された。直接の死因は肺性心とされている。
映画の中で、主人公に「生きるんでい!」と語らせた川島監督に、遺書は無かった。享年45歳。