銀座ガス灯通り

GINZA GAS LIGHT STREET, TOKYO

写真・文/織田城司 Photo & Report by George Oda

赤峰幸生氏と横浜信濃屋の白井俊夫氏が銀座ガス灯通りで、銀座の思い出や着こなしについて語ります。

(赤峰氏)
1960年代のはじめ、渋谷にある桑沢デザイン研究所の学生だった頃、銀座にはよく通いました。

当時ホームベースにしていた渋谷には、米軍の放出品を店先に積んでいるお店はあったけれど、ヨーロッパの伝統服や芸術品を、きちんとした店構えで扱うお店は、銀座や日本橋にしかありませんでした。

(白井氏)
それは横浜も一緒で、元町が専門店街として注目されるようになるのは1970年代からで、それまでは何か良い物を見に行こうというと銀座に出かけていました。

(赤峰氏)
当時の銀座のお目当ては、服飾専門店の他にも、月光荘という画材屋や、ヨーロッパの新進映画作家の作品を上映するアートシアターギルドの映画館があり、創造を刺激するものが集まっていました。ヌーベルヴァーグの映画などは、ほぼリアルタイムで観ていました。

定期券は実家の学芸大学駅と学校のある渋谷の区間のみで、ポケットには小銭しかなかったので、銀座へ行くためには、路面電車を利用していました。

今は手軽に海外に行かれて、何でもすぐに取り寄せられる時代になったけれど、当時は海外渡航なんて夢の時代で、アメリカ文化全盛の中、ヨーロッパ物の取り扱いは少なかったので、銀座の映画館で買ったパンフレットを、そりゃもう、毎日飽きずに見ていました。

帝国ホテルのラウンジでコーヒー1杯で何時間もねばって、外国人の着こなしを見ていたこともありました。

こうして銀座で散財してしまうと、渋谷まで歩いて帰っていましたが、帰り道の店先を見るのも楽しかったので、不思議と苦になりませんでした。このとき夢中で芸術や文化を吸収したことが、今の自分の原点になっています。

赤峰氏の月光荘の新しいスケッチブックと1965年にアートシアターギルドがフェリーニの「8 1/2」を再映した時に購入したパンフレット

(赤峰氏)
あの頃の銀座にはグリル風の飲食店が多かった。いわゆる洋食屋さん。服飾専門店でよく通ったのは登山用品店の「チロル」ですね。そこのオーナーがジャック・タチみたいな風貌で、コート姿が格好よかった。

(白井氏)
あそこのコート良かったよね。でも、当時の自分にとっては高くて買えなかったから、見ているだけでした。

(赤峰氏)
その後、銀座に紳士服専門店がたくさんできて、いわゆる「みゆき族」が街を闊歩する時代になると、それを追うのではなく、服のルーツや映画の中の着こなしを研究して、独自の視点で服のコレクションを作るようになりました。

(白井氏)
着こなしといえば、どこの何を着ているのかと詮索されることは、本来好きではありません。皆さん知りたがるのかもしれませんが、着こなしをブランドやファクトリーという記号で認識するのではなく、まず全体の合わせ方の雰囲気を感じてもらいたいですね。

(赤峰氏)
仕様から先に服を語ることにも疑問を感じます。本来ならば、その服を着た時の加減を先に語るべきでしょう。

かつてフィレンツエのホテルで開かれた展示会でナポリのシャツ屋が貝柱みたいにぶ厚いボタンを手縫いで付けていることを自慢するから、私と白井さんで、それの何が良いのか、と詰問したことがありましたね。

(白井氏)
あの時は、他のイタリア人出展業者が見かねて「あんまりいじめるなよ」と仲裁に入って来た。

(赤峰氏)
服の流行や仕様を追う前に、室内では帽子を脱ぐ、といった、朝『おはようございます』と挨拶するのと同じくらい常識的なマナーや、芸術や文化に対する目を持たないと、表層的な服マニアにとどまってしまいます。

ルーツ・オブ・クラシックとは、ただ単に古いとか、歴史があるというだけではなく、時代を越えた普遍的なものと考えています。

今から思えば、私にとっての銀座は、普遍的なものにふれたスタートラインでした。

ところで、白井さん何を食べますか?

(白井氏)
今日は、ハヤシライスにしよう。

(赤峰氏)
私はさっきからカツを揚げるいい匂いが気になっていたので、ポークカツレツにします。