The Isamu Noguchi Garden Museum Japan,
Mure-cho,Takamatsu-city,Kagawa Prefecture
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
イサム・ノグチは石を求めて世界中を旅した。
アメリカやイタリアの石材産地に加え、日本でも石材業が盛んな四国の牟礼(むれ)町に住居とアトリエを構えた。
1969年(昭和44年)から亡くなるまでの約二十年間、春や秋の気候がいい頃にここを訪れて数ヶ月滞在して、彫刻の制作に励んだ。
ノグチは晩年、「人の役に立つ物が作れたら、芸術家にとってうれしい」と語り、生前からアトリエと住居を芸術家のための美術館として残そうと考え、彫刻を整然と並べ、明治時代の倉を移築して室内展示棟として活用した。
ノグチは1988年の晩秋、「また、春になったら来るね」と言い残して牟礼を旅立ち、ニューヨークで風邪をこじらせ、12月30日に84歳で亡くなった。
渡り鳥のように、旅に出てはフラリと帰るノグチのために、牟礼のスタッフは没後二十年経つ今でも仕事場をそのままにして、石の粉にまみれたハンマーや、ナイフで削られた2Bの鉛筆などが出番を待つ。
展示されている彫刻は、先入観なしに見たままを感じてもらいたいというノグチの遺志から、タイトルや素材、制作年などを記す説明書きは添えられていない。
こうした見方をノグチは「彫刻の大きさは、見る人間の大きさだと思っている。人が彫刻を見つめれば、彫刻も人を見返す。そこに何かのきずなが生まれるのです。『なんだ、君はそこにいたのか』という具合いにね」と語る。
直立する大きな石は、ヒグマと思う人がいれば、その人にとってはヒグマである。先に石の能書きから知りたがる人には何も見えない。
ノグチは日本人の父とアメリカ人の母から生まれ、未婚のまま別離した両親には疎外感をおぼえ、戦時中はどちらの国からも外国人扱いされた。
苦い思い出から「石に向かい合う私は決してひとりではない。彫刻の歴史、現在までの彫刻と呼ばれる全ての物と一緒に作業している」と語り、自分の内面を石に投影しながら、人間の所属は国よりも、地球と重力に求めるべきと考えるようになる。
重力にむかって直立する、という我々の存在の根源を、言葉ではなく視覚や量感で体感してもらうことが芸術の役割と考え、作風を確立していった。
戦後、1950年代になると、ノグチは復興する日本の企業から庭園作りの仕事を受け、確執のあった日本の父親も亡くなったことから、度々日本を訪れるようになる。
日本の芸術家に「現代的な芸術とは、アメリカ人を真似することではなく、独自性を大切にして、自分たちのルーツに着想を求めることだ」と説くノグチは、父親との確執から疎遠になっていた自らのルーツ、日本文化を再認識するようになる。
庭園内で左にアトリエを見ながら歩いていると、右に普通の民家では有り得ない古城のような石の壁が目に飛び込んでくる。石の上には木の根が動脈のように覆い、圧倒的な存在感がある。いったいここは何なのだろう、と背伸びをすると屋根らしきものが見えてくる。
屋根の正体を探るため、さらに進む。いつの間にか、石の壁が低くなり、建物全体が姿を現す。建物の中にあかりが見えると、中も見たくなる。無意識のうちに、「イサム家」の仕掛けにはまってしまった自分に気がついた。
ノグチはインタビューで牟礼に建てた「イサム家」について「四国にある我が家の庭です。小さいけれど気に入っています。この古い日本の家で、私は時たま暮らしています。昔ながらの日本が好きなのですが、今、家がすごい勢いで壊されています。それで私は何とか取り戻そうとしているのです。この武家屋敷も道路拡張工事で取り壊されそうになっているところを、お願いして、手に入れたものです。この二階はむかし侍が詰めていて、敵が来るとヤリを放った所です。自然というのは、人がおよびもつかないデザイナーです。私は自然の力が作り上げた彫刻を見るのが、たまらなく好きです。ここが私のお気に入りのところなのです」と解説している。
ノグチは灯籠や墓石、記念碑など日本の伝統石材を加工する工房の隣にアトリエを構え、直接職人に彫刻の加工指図をしていた。イサム家で点灯されている有名な「あかりシリーズ」のランプシェイドは、岐阜の提灯産地で手がけたものだ。
日本の伝統工芸の産地に足を運び、新解釈を加えて世界に発信する活動は時代を先取りして、完成度も高かった。
「最も大切なものは素材の根元に存在する。それを破壊せずに、変貌させるのが芸術だ」と語るノグチの家やアトリエを見ると、石が好きでたまらない人だと思った。それだけたくさんの石に囲まれていた。
古代から現在までの人類と彫刻の関わりを研究して、自らの創造に生かしたイサム・ノグチのデザインは、親しい友人に語った発言によると、着想がひらめいたのはアトリエではなく、意外や、旅の途中のホテルであったという。
モダンで無機質なホテルは、ノグチにとって会話相手となる石や自然が存在しない孤独な空間である。詩人であったノグチの父親が、かつて「芸術は孤独が咲かせる花」と表現した創作に対する想いを、ノグチ自身も無意識のうちに踏襲していたことに、父と子の因果を感じる。
偶然を大事にしたイサム・ノグチの庭園らしく、雨あがりには、落ちついた色合いを楽しませてくれた。