Trip To Movie Locations : Shimoda,Shizuoka Prefecture
写真・エッセイ/織田城司 Photo & Essay by George Oda
爽やかな初夏は港町の散策が気持ちいい季節です。今回のロケ地探訪コラム『名画周遊』は伊豆の下田で古い町並みをめぐります。
1.開港地の光と陰
激動の幕末、静かな港町だった下田が開港地に指定されると、一躍世界から注目される町になった。
海岸で投網の繕いをしていた漁師や、カンナで木を削っていた船大工たちは、黒船から上陸したアメリカ人が町を歩き始めると、慌てふためいて家の中に引っ込んでしまった。
■ ペリーとペルリの謎
アメリカのペリー艦隊は1853年、浦賀沖に現れると、近くの久里浜に上陸して、開国を促す親書を江戸幕府の役人に渡し、翌年の再訪を告げて帰国した。
翌1854年、約束通り再来したペリーは横浜に上陸して「日米和親条約」を締結する。この条約に下田を即時開港地とし、アメリカ人の行動範囲を7里以内とすることが盛り込まれた。
このため、ペリーはさっそく下田に向かい、約3ヶ月間滞在した。その間に、和親条約の詳細を詰め、「日米和親条約付録条約(下田条約)」を締結すると帰国した。
それから5年後の1859年、開港地が江戸に近い横浜に移ると、下田は開港地の役割を終え、元の静かな港町に戻った。
下田に停泊したペリー艦隊は7隻。乗組員数百名は約3ヶ月の条約交渉の間に下田の町を自由に歩いた。
その時、ペリー艦隊は、日本初の開港地下田で何を見たのであろうか。異文化交流の歴史ロマンが町歩きの楽しみである。
下田の日米会談の場所は、下田港から近い了仙寺に設定された。ペリーは黒船で寝泊まりしていたので、毎日黒船から了仙寺に通いながら条約の詳細を協議した。
この時ペリーが通った道は後に「ペリーロード」と呼ばれ、観光名所として親しまれている。
ペリーは了仙寺で乗組員の戦闘訓練やブラスバンドの練習を行った。下田の庶民もその様子を見学することができた。アメリカ人はそんな日本人の姿を写真やスケッチで記録した。
ペリーはこうした文化交流を通じて感じた日本の印象を、景色は美しく、人々は好奇心が強いと述懐している。
もともとペリーの来航目的は海運や貿易の整備といった経済振興にあり、日本人には終始友好ムードであった。
このため、下田の庶民もペリーや黒船には好印象を持ち、今でも町おこしのキャラクターに使っている。
それにしても、ペリーを描いた当時の瓦版はいい加減な記事やイラストが多い。ペリーの表記も、ペルリやヘルリなどが散見される。これは当時日本側の通訳だったオランダ人の英語の読み方に由来するそうだ。
当時の日本人ジャーナリストは西洋人の脅威を真剣に報道したけれど、今見るとマンガチックでユーモラスに見えるところが可笑しい。
ペリーを日本に送り出したアメリカ大統領フィルモアは、ペリーが帰国すると、次の大統領ピアースに代わっていた。ピアースは外交を推進しなかったため、ペリーが欧州に先駆けて日本を開国に導いた偉業は評価されなかったという。
命がけで使命を果たしても、首長が変われば評価されない。そんなペリーの姿に、今の組織に通じる悲哀を感じる。
■『唐人お吉』の虚実
ペリーの帰国から2年後、アメリカからハリスが下田に来航した。任務は通商交渉を推進するための駐在員であった。このため、下田の玉泉寺を領事館として約3年間滞在する。
この時、ハリスの身の回りの世話をする女性が現地で何人か雇われた。そのうちの一人が「お吉」であった。このお吉が後の『唐人お吉』物語のモデルになった。
タイトルの「唐人」は西洋人を意味する。当時、西洋からの舶来品は中国経由で輸入されたことに由来している。
『唐人お吉』で下田一の芸者だったお吉は、アメリカとの外交交渉を穏便に進めたかった幕府の役人に大金で雇われ、アメリカ領事ハリスの妾になる。お吉の献身的な活躍で外交もスムーズに進むが、ハリスが帰国すると、お吉は日本人から忌み嫌われ、職を追われて落ちぶれ、狂乱の末に入水自殺する。
このお吉の悲話は昭和初期、新聞小説で発表されると、外交政策の犠牲者として大衆の共感を得て、芝居や映画などで次々と上演された。
ところが、史実では、お吉はハリスから3日で解雇されている。その件で、お吉の母親が役人に復職を嘆願した古文書が残されているのだ。このため、『唐人お吉』の物語は実在の人物と史実をちりばめながら、創作を盛り込んで脚色されたドラマと見るべきであろう。
そんな『唐人お吉』の物語が流行した1930年、溝口健二監督は映画化を手がけ、下田港でロケも敢行している(フィルムは現存していない)。
封建社会の中で、男に尽くして身を滅ぼす哀れな女と、その愛情に報いることができない薄情な男の構図は、後の溝口映画の作風を開眼させる契機になった。
2. 港町の海鮮料理
江戸幕府はペリー艦隊数百名を接待するため食事会を開催した。場所は下田港の海岸に建てた特設会場で、江戸から一流の料理人を呼び、新鮮な地魚をメインにした和食のフルコースが振る舞われた。
でも、ペリーはその時の印象を、見た目は綺麗だけど淡白な味と語ったという。アメリカ人が初めて口にした和食だから無理もない。やがて、その淡白な味の中にある奥深さが世界に知られていくのだ。
そんなことを想いつつ立ち寄った下田の飲食店の海鮮は、引き締まった身の歯ごたえと、脂がのった強い粘りがあり、とれたての旨味が充実していた。
■魚料理「なかがわ」
■ 磯料理「新田」
■ 地魚料理「魚河岸」
■ 磯料理「ごろさや」
■ 「美松寿し」
「美松寿し」では、「黒船寿司」を注文した。地魚にぎりのセットである。江戸前にぎりのセットは東京でも食べられるからだ。
後から来店したオーストラリア人も、店主が片言の英語で、江戸前にぎりのセットを「トーキョー・スタイル」、地魚にぎりのセットを「シモダ・スタイル」と訳して説明すると、「シモダ・スタイル」を注文した。その土地ならではの味を楽しみたいのは万国共通なのであろう。
3.今も残る古民家
下田の建物の特徴は、耐火、防湿、強度に優れた「なまこ壁」と、霜降り文様が美しい「伊豆石」使いである。
丈夫な建材のおかげで、昔の建物を使い続ける民家が多く残り、町全体が博物館のようだ。中にはペリー艦隊が来た頃から残る建物もあるから驚く。
■ ペリーロード周辺
ペリーロードは映画『青い山脈』原節子版(1949年監督/今井正)の重要な場面で登場する。
東京から下田の学校に赴任した女教師役の原節子は、町医者役の龍崎一郎と町を歩きながら「あなたは、この古い町の中で…どんなお考えで、お暮らしになっているの?」と尋ねると、
龍崎は「僕は将来…地方の豪農から持参金付きの嫁をもらい…ひとりぐらい囲い者がいるのも悪くない」と答えると、原節子は怒りがこみ上げて、龍崎の顔を平手打ちする。
この場面は女性がリーダーシップをとって、男性の封建的な考えを改革しようとする作品を象徴して大きな話題となり、終戦直後の大衆から共感を得て映画は興行的に大ヒットした。この原節子平手打ちの歴史的名場面は、ペリーロードの「下田市旧澤村邸」(地図#15)の前から「草画房」(地図#19)を望むアングルで撮影された。
戦後民主主義を象徴する原節子のモダンな洋装スタイルを際立たせたペリーロードは、今も当時とほとんど変わらぬ姿で残っている。
■ 下田港周辺
原節子版『青い山脈』では、町医者役の龍崎一郎が自転車の荷台に下田芸者役の木暮実千代を乗せて「みなと橋」を渡る場面もある。
橋の欄干は当時の木製から金属製に変わったが、背景に「加田屋」(地図#1)と小高い山を見る町並みは、今も映画の背景とほとんど変わらぬ姿で残っている。
この建物は江戸末期に建てられ、明治15年(1882)より、晩年の唐人お吉が小料理屋「安直楼」を開業していた時代がある。
「安直楼」は市民から悪い噂を立てられると客足が遠のき、お吉は自ら酒に溺れて数年で店を閉めている。この建物はその後寿司屋となり、現在は下田市が史跡として管理している。
■ 酒屋「土藤商店」
「土藤商店」は明治20年(1887)に創業して今年で130周年を迎える酒屋である。造り酒屋ではなく、下田港に全国から集まる酒や味噌、醤油を貯蔵して販売していた。このため、東京や千葉の銘柄の看板も見られる。
今はなき「ユニオンビール」は小津安二郎監督の『出来ごころ』(1933年)に登場する。東京の長屋に暮らすダメ親父を演じる阪本武の勤務先として、「ユニオンビール」工場の内部が映る。
「土藤商店」は向かいの蔵を改装して、酒屋で使用した道具や販促物を展示する「蔵ギャラリー」を開いている。
その中で注目は「大福帳」と呼ばれる売上帳簿である。明治時代の帳簿ながら、中のページは、まるで昨日書いたかのように真新しさを保っている。これは昔の和紙の強靭な耐久性によるものだという。
「土藤商店」では不要になった大福帳をバラして、和紙の素材として販売している。手芸を楽しむ人がランプシェードや小物入れに加工するために購入するそうだ。
下田の町を歩いて感動したのは、広い空である。高い建物がなく、空が広いから、町の向こうに小高い山と緑が見える。
古民家をビルの谷間や移築先ではなく、あるべき景色の中で見られることが魅力だ。
かつてペリー艦隊も見たであろう、昔ながらの町並みを歩いていると、幕末の日米外交の原点に居合わせ、歴史の一幕を垣間見た気がする。
当時、下田の漁師や船大工は家の中に閉じこもり、窓の隙間から町を歩くアメリカ人をじっと見つめていた。その後の両国がたどる運命など知る由もない。ただひたすら、新しい時代の幕開けを感じて、目を輝かせていたのである。