JIRO SHIRASU & WHITE SHIRT
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
白州次郎は若くして英国に渡航し、戦後は進駐軍との折衝にあたり、日本国憲法の制定に深くかかわった。
その頃、公務にあたる白州次郎は、スーツとネクタイにほとんど白シャツを合わせていた。晩年、英国の旧友と再開した時はネイビースーツとネイビー無地ネクタイにネイビーのギンガムチェックシャツを合わせていた。
英国では戦後、スーツに色柄物のシャツを合わせて個性や気分を楽しむ着こなしが広がり、白シャツはフォーマル度の高いアイテムと捉えられるようになった。そのような変遷を見据えていたからこそ、英国で昼間旧友と再会する時に、端正に見えてリラックス感があるネイビーのギンガムチェックシャツを選んだのであろう。このような場面で白シャツを着ていたら、ジョーク好きの英国人から「俺は棺桶にはまだ早いよ」と言われかねない。
白州次郎は英国留学から帰国後、東京都心で西洋式の暮らしをしていたが、突然、40才の時に郊外の農家を購入し、翌年転居して純和風の暮らしをはじめる。その翌年から東京都心は空襲で焦土と化す。
白州次郎はこの農家に「武相荘」と命名して、83才で亡くなるまで暮らす。日本人が西洋と渡り合うには、西洋に憧れるだけではなく、日本のことをもっと知らなければならないと考えていた。
現在、資料館として公開されている武相荘のガレージにクラシックカーが展示してある。これは往時をしのぶために、かつて白洲次郎が乗っていた車種に近い車を借りて展示しているもので、白洲次郎が長年メンテナンスしていたものではない。本人は晩年ポルシェを乗りまわしていた。
白洲次郎は大きな原則(プリンシプル)を貫くが、細部は深入りせず、時代を巧みに捉えながら柔軟な発想で対応していたのであろう。それゆえ、シャツも制服のように着ていたわけではなかった。
武相荘は建物だけではなく、農園もある本格的な日本の農家だ。書斎の蔵書は日本の歴史や文化に関する本が大半を占める。廊下には白洲次郎が晩年に書いた「家には無頓着だったが、長年持ちこたえてくれたことに感謝する」という意の随筆が掲げられている。
餅つき臼を使った郵便受け。看板を外してしまえば誰もが置きっぱなしの歳末の道具と思うが、この看板があるだけでちがう物に見えている。よほど柔軟な発想がないと臼を見て郵便受けにしようとは思わない。物に対する先入観を取払い、新たな視点で見せる現代アートにも似たアプローチだが、単なる展示ではなく、実用も兼ねていたことで別次元の域に達している。
来客をもてなすために作った竹製の靴べら。無相荘の焼き印入り。竹のしなり具合とやわらかいタッチがこの道具の用途と合っている。洋の靴のための和の道具という発想が面白い。あえて和を前面に出さないシンプルでモダンなデザインが見事である。
花瓶を置くための台として作られた物かは不明だ。頭の中に浮かんだ形に向かって手を動かした設計図なき世界の物作りである。まさに無頓着である。それだけに迫力と、不思議な愛嬌がある。
自分しか使わない道具箱だったら、名前を入れる必要はないであろう。白州次郎は手書きの地図をいくつか残しているが図画はほとんど見かけない。図画は得意ではなかったが、どうしても箱に模様を入れたくなり、得意の文字を模様がわりに使ったのかもしれない。
来客用に建物の呼称を白いペンキで手書きした表札。これもおもてなしの道具である。日本国憲法の制定にかかわった人が日本語をまちがえるはずはないのだが、明らかにひらがなの「が」は一画足りない。これも文字を使った模様なのであろうか。
あるいは一瞬「しまった!」と思ったが、「まあいいか…、男は些細な事な気にしない」としてそのまま設置たのかもしれない。白州次郎は厳格なダンディという印象があるが、こういう柔らかい一面を見ると何故かほっとする。
武相荘は愛想に満ちていた。