TRIP TO MOVIE LOCATIONS
VIA VITTORIO VENETO,ROMA
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画に描かれた観光地には監督の個性が表れて面白い。
アメリカの映画監督ウイリアム・ワイラーが『ローマの休日』(1953年・昭和28年作)の中で描いたローマは、陽気でロマンチックな印象があり、一躍人気の観光地となる。
今でも、映画に登場するローマの名所はオードリー・ヘップバーンやグレゴリー・ペックの追体験をしようとする観光客が世界中から訪れ、そのための観光案内も多く見られる。
同じローマでも、地元の映画監督フェリーニが『甘い生活』(1960年・昭和35年)の中で描くローマは、上流階級の退廃と若者の堕落を題材にしている。
観光気分とは程遠い印象だが、地元の監督ならではの目線でとらえた生活感は味わい深いものがある。
ヴェネト通り VIA VITTORIO VENETO
『甘い生活』は公開当時、地元の保守層からローマの印象を悪くするものとして、批判を受けたが、時代の空気感をモダンな感覚で描く作風は世界的な支持を得た。その象徴として登場するのがヴェネト通りである。
ヴェネト通りの両脇には、古くから、ローマを訪れる世界中の富裕層のために、高級ホテルが建ち並んでいた。
1950年代後半、ハリウッド映画が全盛を迎え、プロモーションでローマを訪れるスターがヴェネト通りのホテルを利用するようになると、地元イタリアの有力者や芸能記者が集まり、通りは活気にあふれ、一躍注目の場所となった。
『甘い生活』の中では、アメリカのスターに群がるイタリア人の醜態が誇張気味に描かれている。
ハリーズ・バー ローマ HARRY’S BAR ROMA
『甘い生活』の中では、当時のヴェネト通りのにぎわいが、ロケとセットで再現されている。広い歩道には、カフェが建ち並び、セレブを待つ芸能記者やカメラマンがたむろしている。
芸能記者を演じるマルチェロ・マストロヤンニは、ヴエネト通りのカフェで、田舎から訪ねてきた父親と再会する。
父親が「すまないね、付き合ってもらって。お前、忙しいんだろ。仕事があるなら言ってくれよ」ときくと、マルチェロは「いいんだよ。ここも仕事場だから。注目の人に出会えるし、写真も撮れる」と答えている。
『甘い生活』の中から、「パパラッチ」という言葉も生まれている。
映画の中で、マルチェロと一緒に行動するカメラマンを演じたワルテル・サンテッソの役名が「パパラッツォ」で、マルチェロがヴェネト通りのカフェから取材に出かける時は、このカメラマンに「パパラッツォ!行くぞ!」と声をかけていた。
映画が広まるとともに、「パパラッツォ」の発音がよく聞き取れなかったのか、人々の印象は「パパラッチ」という語呂に変わり、なおかつ、セレブを追いかけるカメラマンのことを「パパラッチ」と呼ぶものと曲解され、現在に至っている。
フェリーニ監督は当時のヴェネト通りに実在していた、芸能記者やパパラッチを映画の参考にしている。たびたび庶民を主人公にしてきた、フェリーニ監督らしいまなざしが感じられる。
ヴェネト通りを登りつめた所にある「ハリーズ・バー」はそんな時代のカフェの雰囲気を今に伝えている。
ポポロ広場 PIAZZA DEL POPOLO
ローマ名物の遺跡は、『甘い生活』の中では、密会や乱痴気騒ぎの場所として登場する。マルチエロはヴェネト通りのナイトクラブに暇つぶしの来た富豪の娘と夜の広場にデートに出かける。この場面のロケに使われたのがかつてローマ帝国の北の玄関口だったポポロ広場である。
広場の中央には紀元前10年にエジプトから略奪してきた塔が鎮座しているが、フェリーニ監督は塔を映さず、広場の脇から娼婦を登場させている。マルチェロは妻帯者でありながら、富豪の娘と娼婦の家を訪ね、部屋を借り、朝帰りしている。
広場の造作は今も映画と変わらぬ風情でたたずむ。娼婦が顔を出す噴水の柵は、
実際に裏にまわると高さが2メートルぐらいあり、顔を出すことができない。おそらく、踏み台に乗って撮影していたのであろう。
トレヴィの泉 FONTANA DI TREVI
マルチェロがハリウッド女優と夜遊びをする場所のロケに使われたのがトレヴィの泉である。
2015年2月現在、泉は修復中で、観光客のために、水を抜いた泉の上に仮設の歩道を渡し、見学できるように工夫している。
ピンチアーナ門 PORTA PINCIANA
ヴェネト通りを登りつめた所にあるピンチアーナ門は、3世紀にアウレリアヌス帝が防御のために、ローマを囲むように建てた城壁の門のひとつである。
マルチェロがハリウッド女優とヴァネト通りのホテルに朝帰りして、女優の主人から殴られる場面の背景に、このピンチアーナ門が映っている。
レストラン サポリ・ド・イスキア RISTORANTE SAPORI D’ISCHIA
ヴェネト通りのレストランは高くつきそうだったので、ホテルのフロントで「庶民的な店」をたずね、裏通りにある「サポリ・ド・イスキア」を紹介してもらう。
お店はイスキア島出身の主人が経営する小さなレストランで、シーフードを得意とする。夕食時は近所の家族連れなどで満席となる。主人の奥さんと思われる婦人が腕まくりをしながらせわしなく給仕をしている。魚貝のダシは、殻付きを豪快に使ったもので、素朴な郷土料理の味わいがする。
店内には、主人の趣味なのか、カラオケの設備がある。時々主人が歌う『ボラーレ』などの、懐かしのイタリアン歌謡を聞いていると、かつて、日本の小さな町に出張した時に立ち寄った大衆酒場の雰囲気を思い出す。なるほど「庶民的な店」であった。
『甘い生活』に映る夜のヴァネト通りには、車が二重駐車して、着飾った男女があふれんばかりに闊歩している。
マルチェロの父親はその様子を見て「夜なのに、すごくにぎやかだな。村なら、この時間は真っ暗だよ」と語る。
そんなにぎわいを期待して食後に繰り出したヴェネト通りには『甘い生活』の喧騒はなく、静まりかえっていた。
通りの人影はまばらで、芸能記者やパパラッチの姿はなく、ハンチング帽をかぶった男が近寄って来て、怪しげな店に誘うだけであった。