TRIP TO MOVIE LOCATIONS
HASE,KANAGAWA PREFECTURE
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
物づくりは、作者の好みが感じられると深みが増す。
映画監督小津安二郎は、生活から映画づくりに至るまで一貫した好みを持っていた。晩年は鎌倉で暮らし、ゆかりの地も多い。今回はその中でも、長谷を訪ね、好みの背景をめぐってみた。
鎌倉文学館 KAMAKURA MUSEUM OF LITERATURE
鎌倉文学館は、鎌倉市が旧華族であった前田家から寄贈された別荘を鎌倉ゆかりの文学者の資料を展示、保存するために活用している施設である。
展示内容もさることながら、広大な庭と独自の意匠を施した洋館は、かつての華族の栄華にふれることができる貴重なスペースだ。
小津監督は脚本家として鎌倉文学館に名を連ね、直筆の書画や愛用の品が収蔵されている。映画作りの中で、脚本の存在を重視していた小津監督は、ほとんどの作品の脚本を自ら手がけていた。
小津監督の脚本作りは、交流のあった鎌倉文士たちと協業するかたちで進められていた。文士へ指南をあおいだのは、ストーリーの組み立てのみならず、セリフの細かい一字一句にいたる。それゆえ、小津監督は俳優にはアドリブを許さず、脚本どおりに喋るよう指示した。
ノーベル文学賞をいただくような文士たちと、長い時間かけて突き詰めた脚本は、俳優の感覚で勝手に変えることは許されなかったのである。
小津映画に多数出演した俳優の佐分利信は、小津監督が脚本の中でこだわっていたのは、美しい日本語と語っている。
華正樓 鎌倉店 CHINESE RESTAURANT KASEIRO
華正樓は1939年(昭和14年)に横浜中華街で本格北京料理店として創業する。長谷にある鎌倉支店は、この地にあった旧華族の別荘を改築したものである。
三階の客室の窓からは由比ケ浜が見渡せる。ここでも、かつての華族の優雅な気分にふれることができる。
小津監督は長谷の華正樓を映画関係者との会食などで頻繁に利用していた。個室のもてなしは、観光客の目を逃れるには好都合だったのであろう。
ランチのコースは旬の食材を使って独自に工夫されたメニューで構成されている。どれも最初はあっさりした口あたりながら、食べすすむうちに素材の旨味がにじみでてくる。
長谷寺 HASE KANNON TEMPLE
小津監督は、鎌倉の自宅に親戚や知人が訪ねて来ると鎌倉見物の案内をすることもあった。長谷寺は、736年(天平8年)の創建と伝えられる長谷の代表的なお寺である。
境内には、ご利益がありそうな造作物が随所にあり、拝観のテーマパークのようだ。このほか、四季の花や海岸を見渡す見晴らし台など、見どころは多い。
長谷の大仏 GREAT BUDDHA OF HASE
長谷の大仏は、小津映画の中で、戦前、戦中、戦後の節目に三たび登場する。
同じ監督の作品の中で、シリーズ物でもないのに、同じロケ地が何度も登場することは珍しい。よほど気に入っていたのであろう。
戦前の小津映画で大仏が映るのは『朗らかに歩め』(1930年・昭和5年作)で、高田稔演じるチンピラが川崎弘子演じる堅気の女性とドライブに出かける先として登場する。
この頃、小津監督はアメリカ映画に心酔していて、男女も最先端の洋装で登場する。いわゆるモボ・モガである。この中で大仏は、旧態然とした日本を象徴するかのように描かれている。
次に大仏が登場する小津映画は『父ありき』(1942年・昭和17年作)である。笠智衆演じる金沢の中学校教師とその息子の半生記で、大仏は修学旅行先として、富士山とともに登場する。
ブログの写真を撮影した日も境内は修学旅行生で混雑していた。旗を持ったバスガイドが大声で「個人の写真は後にして、先に団体で写真を撮ってくださーい」と引率する。大仏を背景に整列した学生の構図は、小津映画の記念写真撮影のシーンと変わりがない。
記念写真を撮り終えた学生たちはバスガイドの引率よろしく、ものの10分で消えていった。
1937年(昭和12年)、日中戦争が勃発する。小津監督は『父ありき』の脚本を書き上げると5日後に招集令状が届き、中国戦線に出征する。
小津監督は敵の銃弾が飛び交う最前線で生死の堺をさまよい、同時に出征した映画監督の山中貞雄は現地で戦病死した。
1年10ヶ月の兵役を終えて帰還した小津監督は、夢にまで見た、『父ありき』の撮影を開始する。
すでに戦局は世界規模に広がり、小津監督が描く画面には、もはやアメリカ映画のコピーはなく、純和風の景色ばかりであった。大仏はその象徴として、富士山とともに挿入されている。
『父ありき』が公開されると、再び小津監督のもとに召集令状が届き、シンガポールに出征して、現地で終戦をむかえる。
戦後、小津監督が手がけた『麦秋』(1951年・昭和26年)は、まだアメリカ軍の占領下にあった時代に制作している。この映画の中で大仏は、北鎌倉で暮らす一家が奈良から訪ねて来た祖父を鎌倉見物に連れて行く場面で登場する。
この頃、小津監督は戦争を経験して、日本人にしか撮れない映画を撮ろうと決めていた。『麦秋』では高堂国典演じる祖父を狂言まわしにしながら、日本と日本人家族の無常観を暗示する。この映画の中で、高堂国典は終始和服姿であった。離散していく家族とは対照的に、大仏は不変の大和魂を象徴するかのように見える。
大仏ハイキングコース DAIBUTU HIKING COURSE
小津監督はハイキングが好きで、映画の中にも、度々ハイキングのシーンを取り入れていた。
鎌倉に越してからは、家の前の道が大仏ハイキングコースにつながっていたので頻繁にハイキングを楽しんでいる。
大仏ハイキングコースは大仏の裏山の尾根を歩く山道で、大仏から北鎌倉までを徒歩約1時間で結ぶ。適度なアップダウンがあり、真冬でも額から汗がしたたり落ちる。
原始が残る山道は戦国武士が闊歩した頃と変わらぬ風情でたたずむ。時折下界に住宅地が見えると、我にかえる。冬場は、何の花も咲いていないが、雄壮な木の枝の迫力を楽しむことができる。
銭洗弁財天 ZENIARAI-BENZAITEN SHRINE
大仏ハイキングコースの途中にある銭洗弁財天は、源頼朝が1185年(文治元年)に、神のお告げで見つけた湧き水を霊水として祀り、北条時頼が銭を洗って一族繁栄を祈願したことから現在に至る。
お金はザルに入れてヒシャクで霊水をかけながら清める。参加度の高い祈願のスタイルで、実体感がある。
小津監督は、映画の中では大仏に想いを託していたが、プライベートで頻繁に訪れていたのは、銭洗弁財天である。1954年(昭和29年)4月7日の日記の一節に「山を越して銭洗い弁天に賽すのち長谷華正樓に至り夕餐を喫す」とある。
金運もさることながら、小さな境内は、小津監督が生まれ育った東京の下町にある神社のようで、そのへんも好みだったのであろう。