TRIP TO MOVIE LOCATIONS
KURAMAE, TOKYO
写真・文/織田城司 Phoyo & Essay by George Oda
玩具の問屋や町工場がならぶ東京の下町・蔵前には、かつて007のロケ地に使われる因果があった。
そもそも蔵前は江戸幕府の米蔵があったことが地名の由来となる。1927年(昭和2年)に架橋された蔵前橋は、米蔵に貯蔵される稲のもみ殻の色をイメージして黄色く塗られた。
終戦直後、両国にあった旧国技館がアメリカ軍に接収されて使えなくなると、日本相撲協会は1954年(昭和29年)、米蔵の跡地に代替えの蔵前国技館を建て、相撲興行を続けた。
蔵前国技館は、『007は二度死ぬ』(ルイス・ギルバート監督1967年・昭和42年作)の中で、日本から発射された不審なロケットの調査で来日した英国諜報部員を演じるショーン・コネリーが、日本の秘密警察のメンバーと落ち合う場所として登場する。
ショーン・コネリーは蔵前国技館で案内係に、事前に仲間から聞いていた「サダノヤマ」という合い言葉を告げると、支度部屋に案内され、当時の横綱〝佐田の山〟本人から「ジス・イズ・ユア・チケット」と言われ、桟敷席の番号札を手渡される。指定の席で取り組みを観戦していると、秘密警察の秘書を演じる若林映子が相席の客を装って迎えに来る。
007シリーズは国際スパイが活躍する映画らしく、ボンドが出張する見知らぬ国の異国情調も魅力のひとつになっていた。映画の製作陣からスモウ・レスリングの場面を取り入れたい意向を受けた日本相撲協会は、007は国技の宣伝になると見込んで撮影に全面協力した。
蔵前国技館には佐田の山や大鵬をはじめとする当時の代表力士と、新聞広告で公募した数千人のエキストラ観客が集められ、本場所さながらの迫力ある取り組みシーンを再現した。
ショーン・コネリーは蔵前で3日間の撮影をこなしながら、夜は隣町の浅草国際劇場で松竹歌劇団のレビューショーを楽しんだ。
蔵前国技館は相撲興行のほかに、街頭テレビで人気のあった力道山のプロレスやキャンディーズ全盛期のコンサートに使われるなど、昭和の記憶に残る大衆文化の殿堂として活躍した。
相撲発祥ゆかりの地、両国に悲願の新国技館復帰が実現すると、蔵前国技館は1984年(昭和59年)、役目を終えて取り壊され、跡地には東京都の下水道局と「浅草御蔵跡」の石碑が建てられた。
国技館が移転した後の蔵前は、再び静かな玩具の問屋街にもどった。
玩具を作る町工場が登場する映画で印象深いのは『生きる』(黒澤明監督1952年・昭和27年作)である。
退屈な市役所から玩具工場に転職した女工を演じる小田切みきは、再会した元上司の市役所課長を演じる志村喬に、自分が手がけたゼンマイ仕掛けのウサギの玩具を見せながら、「これ作りだしてから、日本中の赤ん坊と友だちになった気がするの」と、物をつくる喜びに生きがいを見つけたことを語る。
画面からロケ地の特定はできないが、戦後のベビーブームで急増する玩具の需要に対応するため、あちこちの町工場で玩具が作られていた時代が垣間見られる。
森光子の舞台で有名な『放浪記』の原作は、何度も映画化され、玩具工場の場面も登場する。原作は大正末期、広島の高校を卒業して東京に出稼ぎ来た女性が、職を転々としながら執筆活動で自立していく林芙美子(1903-1951)の自伝的な小説で、玩具工場の場面では、
「私達のつくっている、キュウピーや蝶々のお垂下止めが、貧しい子供達に頭をお祭りのように飾ると思えば、少し少しあの窓の下では、微笑んでもいいでしょう。」
と記され、玩具に筆で色を塗る単調な手仕事を、前向きな気持ちで乗り切ろうとする心情が描かれている。
町中には地元の人々が利用する飲食店が点在している。路地裏のとんかつ屋「にしかわ」は、カウンターと小あがり数席ながら、1970年代から続く老舗で、昼時分になると、町工場の工員や主婦でほとんど満席となる。
店構えは純和風で、とんかつも素材の味を生かす和食をイメージして、衣はうすく、ソースも醤油のようにうすく調節されている。
分厚いロースはやわらかくて脂身が少なく、あっさりした食感ながら、噛みしめていると豚肉の旨味がにじみ出てくる。食後のもたれもほとんどなく、さっぱりした後味だ。
看板文字もあっさりしていて、主張がはっきりしている。濃厚な味付けが多い昨今、長年貫いたあっさり味には存在感がある。
小さなお店では、目の前で職人技を見る楽しみがある。
カウンターに座っている町工場の工員らしいユニフォーム姿の3人連れは、会話をするでもなく、白衣を着た店主が神経を一点に集中して、とんかつを揚げ、包丁でサクサクと音をたてながら切り分け、山盛りのキャベツの横に盛りつけていく手さばきを、「うまそうだな…」と、飽きもしないで眺めている。
工員たちは毎日手仕事を繰り返す自分たちを店主の姿に投影しているのかもしれない。手仕事で生きる職人同士の敬意が感じられた。
「にしかわ」のとんかつの匂いが漂う龍宝寺には、川柳の創始者、柄井川柳(からいせんりゅう 1718-1790)の墓が祀られていてる。
江戸時代、蔵前で暮らしていた柄井川柳は、1757年に同地で川柳の始祖となるイベントを開催したことから、蔵前は川柳発祥の地とされている。軽妙で風刺のきいた川柳は、いかにも下町生まれの大衆文化だ。
柄井川柳の墓石には辞世の句、「木枯らしや あとで芽をふけ 川柳(かわやなぎ)」が刻まれている。
柄井川柳の亡き後、明治維新や世界大戦の「木枯らし」が吹き荒れると、情緒よりも効率が優先される時代が続き、庶民の手で育まれた大衆文化は、「あとで芽をふけ」のままになった。