Trip To Movie Locations : Kikuzaka & Yawata
写真・エッセイ/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画ゆかりの地をめぐる連載コラム『名画周遊』
今回は、明治女の生涯を小説『にごりえ』で描いた樋口一葉と、その映画版の脚本を手がけた水木洋子の創作背景を探訪します。
井戸のある路地
本郷の菊坂は、江戸時代に菊畑があったことから名がついたという。
明治になると、近くに大学や図書館ができ、文学を志す若者が集まるようになった。樋口一葉もその一人である。
空襲をまぬがれた街並みには、昔の面影がかすかに残る。入り組んだ路地を歩いていると「一葉も同じ景色を見たのでは‥」と感じた。
一葉の父は、幕末の町方奉行に支える武士であった。明治の新政府から士族の身分を与えられると、東京府や警視庁の職を歴任し、裕福な暮らしをしていた。
父は、幼い一葉の文才に感心すると、将来を見込んで机を買い与え、和歌の塾に通わせた。だが、運送会社の起業に失敗すると、一家の運命は暗転する。
父は多額の借金を抱えたまま病死。残された一葉と母と妹は家財を売り払うと路頭に迷い、親類縁者の家を転々とした。明治22(1889)年、一葉17歳の時であった。
行く先々で冷遇された一葉たちは、自分たちの家を探して暮らすことを決意。家賃は皆で働いてまかなうことにした。こうして、一葉たちは旧菊坂町の路地にある小さな借家にたどり着いた。この路地で一葉が使った共同井戸は、ポンプ式に姿を変えて今でも残っている。
一葉はここで21歳になるまで4年ほど暮らし、母と妹とともに内職で生計を立てた。主な内職は和服の仕立てや洗濯、蟬表(せみおもて)作りであった。
蟬表とは、下駄の表に付ける籐(とう)で編んだ敷物のこと。蝉の羽のように見えることから、この名で呼ばれた。
当時の内職は賃金が安く、一葉たちが長時間働いても家計を支えるには困難だった。不足分は借金や、近所にあった「伊勢屋質店」への質入れ、そして、一葉が始めた小説の原稿料で補った。
一葉は上野の図書館に通って小説の研究を続けながら、新聞や雑誌に小説を発表。井戸のある路地から小説家としてデビューした。
小説で生計を立てることは、一葉の夢であったし、内職よりも収入が良かった。最初は一葉の著述業に反対した母親も、次第に一葉の原稿料をあてにするようになった。
売れっ娘酌婦
一葉は明治28(1895)年、22歳の時、母と妹とともに、本郷にあった丸山福山町に転居する。その2年後に亡くなり、ここが終の住処になった。
その間、一葉は代表作を次々と発表する。『にごりえ』もその一つであった。当時歓楽街だった丸山福山町を舞台にした売れっ娘酌婦の物語である。
酌婦は幼い頃に両親を亡くし、いつしか水商売の世界に入った。若さと美貌で町一番の人気者になると、金持ちの若旦那が上顧客に付き、結婚して足を洗うことを夢見ていた。
この夢に、日雇い人夫が暗い影を投げかける。人夫はもともと布団屋を営んでいたが、酌婦の甘い言葉に誘われるうちに私財を使い果たし、妻が内職で家計を支えていた。やがて、人夫は酌婦を逆恨みして、付けまわすようになる。
今でもありそうな、場末の怖い愛憎劇である。一葉がなぜこんな話を描いたのか気になって調べると、当時の一葉の家は、銘酒屋の隣にあった。
銘酒屋とは、闇営業の私娼館である。この頃の娼館は、政府の公営事業であった。このため、闇営業の私娼館は素性がバレないように、1階に酒の看板を掲げて酒屋を装い、店内に空の酒瓶を並べながら、酌婦が2階で客を取っていた。
ある日、銘酒屋の酌婦が一葉に代筆を頼みに来た。馴染み客に来店を促すダイレクトメールである。一葉はこれを機に、酌婦と近所付き合いを始める。酌婦の身の上話を聞くうちに、生活苦を抱える自分と紙一重の存在と思うようになった。
やがて、一葉は酌婦の目線で歓楽街を見つめ、着想を広げて描いたのが『にごりえ』である。そこには単なる通俗小説の域を超えた、魂の叫びがあった。
一葉は和歌の塾で一緒だった良家の子女のハイカラ趣味と決別。自分に近い庶民の生活を描くことで、新たなジャンルを切り開いた。
『にごりえ』の酌婦が若旦那と結婚して貧困から抜け出そうとする夢は、一葉の願望のように思える。
その足を引っ張る日雇人夫の存在は、現実の象徴かもしれない。一葉は日雇人夫の妻の内職場面に、自分も手がけた蝉表作りを描いている。
当時の社会批判も含まれていた。今の東京ドームシティの場所にあった陸軍の兵器工場は日清戦争の軍需景気に沸き、酌婦は関係者が街に落とす金をあてにしていた。
一葉は、これが近代国家のあるべき姿に思えなかったのであろう。『にごりえ』に描かれた酌婦の悲劇的な結末に庶民の憤りを感じた。
こうした作品の奥深さは文壇で評判になり、森鴎外や幸田露伴は、一葉の将来に期待する。そこには、階級や家柄ではなく、誰もが作品の出来栄えで評価される、近代の新しい息吹があった。
その矢先、一葉が恐れた現実は病魔という形で現れ、命を奪った。
一葉が幼い頃父に買ってもらい、貧しくても手放さずに使い続けた机が、滅びゆく士族の矜持として残された。
買い物かご
脚本家、水木洋子は『にごりえ』の映画化を企画し、自ら脚本を手がけた。
映像は今井正監督が明治の丸山福山町を再現して一葉の世界を活写。昭和28年(1953年)に公開され、その年のキネマ旬報ベストテンの1位に輝いた。
『にごりえ』に加え、水木の脚本で同じくベストテンの1位になった映画は4本あり、『また逢う日まで』(1950年作監督/今井正)、『浮雲』(1955年作監督/成瀬巳喜男)、『キクとイサム』(1959年作監督/今井正)、『おとうと』(1960年作監督/市川崑)などである。
ベストテンで1位になる映画の脚本を5作も手がけたことは、日本映画史上の偉業である。当時の日本映画界の重鎮、小津安二郎監督も日記の中で高く評価している。
水木は若い頃、文学少女ではなかったという。芝居小屋に出入りするうちに、脚本を書き始めた。当時はシナリオ学校など無く、独学で試行錯誤しながら編み出した。
水木は後に、脚本で大切なのは「主題」と解説している。まずは、伝えたいことありき。例えば映画『また逢う日まで』には「戦争はもうこりごり」という想いが先にあり、物語やセリフが後からついてきた。想いが大衆に伝わることが映画のヒットにつながると実感していた。
水木は終戦直後の昭和22(1947)年、37歳の頃、疎開先から千葉県市川市にある、京成電鉄八幡駅の近くに移り住んだ。
空襲をまぬがれた八幡の街には、昔の東京を思わせる懐かしい雰囲気が残っていた。同じ頃、幸田露伴や永井荷風も八幡に移り住んでいる。
水木は永井のファンで、同じ街に住んでいることを知っていたが、交流することは無かった。水木も永井と同じように、自ら買い物かごを手に、地元の商店に通い、庶民との交流を楽しんだ。
水木は脚本家として大成しても、終生八幡を離れることはなかった。一葉と同じく、自分の経験や社会性、地域性などを作品に盛り込み、映画に深みを加えていった。
プライベートでは28歳の時、映画関係者と結婚して、10ヶ月後に離婚している。その背景を語っていないが、映画『婚期』(1961年作監督/吉村公三郎)の中で、高峰三枝子演じる離婚歴のあるデザイナーが次のように語るセリフに、水木の結婚観が感じられる。
「ああ、どうして皆、結婚したがるのかしら。私は不思議で仕方が無いわ。男なんて、多少の浮気なんかあるものと思ってなかったら、結婚なんてできませんよ。
結婚なんて、ただの女中に行くようなものだから。女中の方が公休日もあるし、給料ももらえるし、お仕着せの多少も出るし、ずっと気が利いているわよ」
その後、水木が再婚することは無かった。
水木の社会的なメッセージは、主題のみならず、日常の些細な会話の中にも感じ取れる。映画『キクとイサム』の中で、荒木道子演じる小学校の先生は女生徒のキクに次のように語る。
「キクちゃん、今から手に職を付ける準備をしておかなければダメだよ。何になりたい?決めておきなさいね。
これからの女は、自分で食べていかなければダメだから。結婚は食わせてもらうためにやる、というのが古い女の考えだった。キクちゃんは、新しく生きなきゃ」
このセリフは、水木が小学生の時、実際に女の先生から言われたことだそうだ。戦後、婦人に参政権が与えられたばかりの世相を意識して、脚本に取り入れている。
水木が八幡の地域性を盛り込んだ映画に『純愛物語』(1957年作監督/今井正)がある。自宅から近い葛飾八幡宮を重要な場面の設定に描き、ロケでも使われた。
中原ひとみ演じる原爆後遺症で余命の短い少女が、江原真二郎演じる町工場の少年と最初で最後のデートをする場所のひとつとして登場する。境内にある図書館(現在は市役所分庁舎)から流れてくるショパンの『別れの曲』のオルガン演奏が二人の運命を暗示する場面であった。
少女が働くラーメン屋の街の設定には平井、少年が働く工場の街の設定には小岩が使われた。いずれも八幡の近くだが、全国的に有名な場所ではない。そんな場所の選び方も物語に真実味を加えた。
色あせたカレンダー
水木は晩年、真冬に浴衣一枚の姿で庭掃除をするようになる。その様子を垣根越しに発見した民生委員たちの手で、間も無く老人ホームに収容された。
水木はその後、老人ホームで暮らし、家に戻ることはなかった。脚本家仲間だった新藤兼人が見舞いに行くと、「あんた、だれ」と言われたという。
水木には子供がなく、晩年は母と二人暮らし。母が台所の火で大火傷を負うと、仕事を控え、介護中心の生活になった。その母が亡くなると、生き甲斐を失い、認知症が進んだ。
水木は83歳から老人ホームで暮らす。平成15(2003)年に92歳で亡くなると、財産は長年住んだ市川市に寄付された。
『にごりえ』は水木の代表作になり、芝居も上演された。そのパンフレットに、水木は一葉と『にごりえ』への想いを次のように記している。
「自分の感じとった女の悲劇を、生活苦とか、愛とか、そうした視野でのみ感じる以上に、女の生命というものを今の社会機構の中で考えてみたかった。
少なくとも同じ社会の中にも、二十代、三十代、四十代、‥、それぞれ異なる女の悲劇がある。」
映画界の頂点を極めた栄光と晩年の孤独。水木の生命そのものが、最後の脚本になった。
旧水木邸のリビングに、松竹の女優カレンダーが2枚貼ってある。
1枚は鮎川いずみの写真を配した平成3(1991)年12月のもの。もう一枚は翌年のもので、表紙を破り、松坂慶子の写真を配した1月のページを開いた状態で貼られている。
いかにも、新しい年を待つ光景のように見える。だが、月日が経っても、カレンダーはめくられることは無かった。水木が民生委員に保護されたのは、この頃である。
壁に残されたカレンダーは、水木の時が止まったことを示したまま色あせた。