SHINOHASHI BRIDGE_NIHONBASHI,TOKYO
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
東京湾にむかって流れる墨田川には、たくさんの橋がかかる。なかでも新大橋は、ゴッホによって油絵に描かれるという、かわった経歴を持つ。
ゴッホが日本に来てスケッチしたのではなく、広重が描いた新大橋の浮世絵がパリに渡り、ゴッホがそれを模写する数奇な運命で実現した。
ゴッホ(1853-1890)は、自画像で見ると老けて見えるが、37歳の若さで自殺した。その3年程前、西洋の古典絵画に飽きて新しい画風を模索していてた頃に、パリの画廊で見た日本の浮世絵に興味を抱き、相次いで何作かの模写を試みた。その中に新大橋も含まれていた。
歌川広重(1797-1858)が晩年、「名所江戸百景」シリーズの中で描いた新大橋は、上空から見た橋の一部を切り取る大胆な構図である。当時隅田川周辺には高い建物がなかったので、想像で描いたことになる。細部は物を立体的に描写するというより、情景を簡潔な線で描いている。日本の伝統的な絵画技法と広重の独創がゴッホにとって新鮮に映ったのであろう。
ゴッホがこの浮世絵を模写している最中に、「いったい、この橋は日本のどこにあるのだろう。橋の上の人々はどこへ行くのだろう」と、想いをめぐらしたのではないかと想像して、新大橋の周辺をめぐってみた。
新大橋は江戸時代の中ごろにかけられ、明治45年(1912年)に木造の橋から鉄橋へとかけかえられた。その一部が愛知県の博物館明治村に移築保存されている。
当時はまだ国内の製鉄技術が十分ではなかったので、鉄材は全てアメリカで製造して、小分けに輸入して組み立てた。
装飾性に富む重厚なデザインは帝都のモダンを感じさせ、直線と曲線、鉄と石が交錯する均衡は見ていて飽きがこない。木造の橋が、突如鉄橋へ変貌していく様は、いかにも明治という時代背景を感じる。
この頑丈な鉄橋は、関東大震災や東京大空襲でも被災を免れた。関東大震災後の火災では、木造の家屋や橋が焼ける落ちるなかで、1万人以上の人がこの鉄橋の上に避難し、九死に一生を得たことから、お助け橋とも呼ばれた。
日本の近代化と戦後の高度成長を支えた姿は、浮世絵の江戸情緒とは別な意味の感慨深さがあった。
この鉄橋は重さがあだとなり、地盤が沈下してきたので、1970年代に現在のつり橋にかけかえられた。
現在の新大橋は、橋のオレンジの支柱に広重の浮世絵のレリーフや碑文が掲げてあり、ここがまさしく歴史の舞台であることは確認できる。
ところが、まわりの風景はビルの看板ばかりが目につき、戦前は遊泳や漁業ができたという隅田川は濁り、あまりにも殺風景で焦点が定まらないまま、あっという間に渡りきってしまった。広重やゴッホの追体感は過度の期待で、無理があったのかもしれない。
それからしばらくして、人形町で会合があったある晩、西洋の祭りのカボチャを申し訳程度に飾る商店街をぬけて、夜の新大橋を見に行った。
ライトアップされた橋は、たまたま屋形船が通ったこともあり、昼よりも趣があって見えた。夜の闇が無秩序なビルと濁った川を覆い隠さないと、ゴッホが好きそうな色彩が浮かんでこないのが、今の東京の都市景観なのかもしれない。