AKAMINE’S MEMORY OF AMERICA IN 60S
文/赤峰幸生 織田城司 Essay by Yukio Akamine, George Oda
写真/織田城司 Photo by George Oda
赤峰幸生氏の白金台のオフィスをたずねると、入り口に首から無数の入場パスを下げた白衣のトルソーが立っている。
入場パスは、パリとミラノで年2回開催される欧州生地展と、フィレンツエで年2回開催される紳士服の国際見本市のもので、赤峰氏が何年も通って、積もりつもったものである。今年9月に訪れたの生地展の分も加わったばかりだ。
近年、ヨーロッパを拠点に物づくりをする赤峰氏に、かつて、アメリカに傾注していた時代があるという。そのことを赤峰氏にお尋ねすると「戦後間もない頃の日本は、アメリカンしか無かったんだよ」という赤峰氏が語ったアメリカの思い出を、60年代、70年代、80年代の3話で連載するシリーズです。
【 はじめてふれた異文化アメリカ 】
東京オリンピックが開かれた年と前後して、渋谷にあった専門学校、桑沢デザイン研究所に通いはじめた。
学校までは渋谷のハチ公口から交差点を渡って、公園通りをのぼっていった。当時の公園通り沿いにはほとんど何もなく、パルコのある場所に病院があるだけで、閑散とした通りだった。
学校のすぐ先に「ワシントンハイツ」があった。これは、日本に駐留しているアメリカ軍専用の住宅地で、今のNHK放送センターから、代々木公園、国立代々木競技場をへて明治神宮の手前まで続く広いエリアで、柵の外から見る裕福な暮らしは別世界だった。
敷地の近所には「ナカタニ」というカフェレストランがあった。敷地から散歩などで外出するアメリカ人向けに作られたこのお店は、アメリカ映画に出てくるドライブインのようなつくりで、アメリカ人からは「ナック」の愛称で親しまれていた。
そこでジュークボックスからアメリカのヒット曲が流れる中でアメリカ人にまじってコーラを飲んだりしたのが、生まれて初めて直にふれた異文化だった。
学校の授業が終わると、渋谷を拠点に学生として遊んでいた。道玄坂に繁華街があり、恋文横町は、むかし手紙がうまく書けない人のための代書屋が多かったことからこの名がついたそうだが、当時から代書屋はなく、名前だけが残っていた。
百軒店の通りにはジャズ喫茶があり、店内ではモダンジャズのレコードを流してした。デイブ・ブルーベック、マイルス・デイビス、セロニアス・モンクなどのアドリブをメインにする演奏は、それまでのスイングジャズとはちがい、心象風景を写すようは印象があった。フランス映画の「死刑台のエレベーター」など、悩める若者を描く映画にモダンジャズが使われた影響もあり、若者の間で広まっていった。そんな連中が想いに浸ったり、談話をするたまり場がジャズ喫茶だった。
当時の百軒店はジャズ喫茶だらけで、「ありんこ」や、「デイグ」、「オスカー」、「スイング」、「デュエット」などの店によく通った。
ジャズ喫茶のほかに、「さかえや」という米軍放出品をあつかう店があり、そこではじめてアメリカの物に出会った。ヘビーウエイトのヘインズのスウェットやジョッキーのトランクス、ウールリッチやティンドルトンのオーバーシャツが印象に残っている。アメリカ製の物の他に日本製の物も扱い、よれよれのレインコートを買って、よく着ていた。
輸入のLP盤なんかも置いていて、フォーク・クルセイダーズの加藤和彦が物色していた。伊丹十三が黒のモーガンというスポーツカーで乗り付け、黒のタートルセーターを着てさっそうと降りて来る姿は、それはもう格好よかった。当時のクリエイターたちがネタを探しに集まる店だった。
その当時「さかえや」で買って、今でも大事に持っているのが、この2着です。