RED BRICK STORY
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
東京駅丸の内駅舎は、東京大空襲の火災で屋根と床が焼け落ちた。戦後は資金不足から元の姿に修復できずに簡易な屋根をつけ、高度成長時代には高層ビルに建て替える計画もあった。半世紀の紆余曲折を経て元の姿に修復され、10月1日に開業をむかえる。
時をさかのぼる明治時代、東京駅の設計を請け負った建築事務所では、日本の玄関となる新しい駅に、伝統的な赤煉瓦を使うか、最新式のコンクリートを使うかの論争があった。赤煉瓦で最後まで通したのが辰野金吾(たつのきんご)である。
【 1 唐津から東京へ 】
辰野金吾は幕末の1854年(嘉平7年)、唐津藩の下級武士の家に生まれた。合戦があると後方で炊き出しなどの雑役をする家柄で、次男ということもあり、養子に出された。江戸時代であれば、出世に縁のない境遇である。やがて、15歳の時に明治維新をむかえた。
1871年(明治3年)、保守的な唐津でも、西洋の知識を学ぶ洋学校が設立されることになった。金吾は洋学校の入学手続きの前日、徹夜でお城の門前で待っていた。藩が新しい試みをするからには、さぞや多くの人が申し込み、家柄の低い自分は落とされるかもしれないと不安に思ったからである。ところが、応募者は金吾一人しかおらず、唐津中の笑い者になった。
先にこの洋学校に入学を決めていた金吾より二歳上の曾禰達蔵(そねたつぞう)は、後に三菱財閥のもとで、丸の内赤煉瓦オフィス街の設計を手がける人物で、金吾の前向きな根性に期待をして声をかけ、一緒に学生を集め、ようやく洋学校は開校した。ところが、廃藩置県と前後して、洋学校は何者かによって放火され閉校となった。落胆した達蔵と金吾は、洋学校の教師として赴任していた高橋是清をたよって上京する決心した。
辰野金吾が生まれた城下町唐津で、金吾が監修した銀行を修復した記念館が昨年開業した。
辰野金吾が弟子の田中実とともに手がけた故郷の銀行は、当時、まわりに背の低い伝統的な商家が広がる街並のなかでひときは目立ち、近代化を象徴するハイカラな存在だった。
【 2 東京からロンドンへ 】
上京した達蔵と金吾は高橋是清の斡旋で、学校の臨時教師として、唐津の洋学校で憶えた英語を教えた。金吾は学校がおわると外国人教師の家でボーイとして働き、便所掃除など、身の回りの世話をしながらがら生活資金を稼ぎ、英語の勉強を重ねた。
1873年(明治6年)、明治国家の工部省は大学(後の東大工学部)を設立する。応募した達蔵は合格したが、金吾は不合格であった。二ヶ月後の追加募集試験で金吾は十名枠の十番目でかろうじて合格した。
翌年、専門学科が設けられ二人は造家学科に進む。当時は建築学という言葉がなく、造家とよばれていた。1876年(明治9年)、この科の教授として、後に鹿鳴館や三菱一号館を設計するジョサイア・コンドルがロンドンから着任した。コンドルは学生たちに、アーキテクトになるためには、技術の知識とともに芸術の素養を高めなければならない。なぜなら、アーキテクトは文化に携わる人間にほかならないからと説いた。
金吾は早く技術を習得して、工場をたくさん建てて、世の中の役に立ちたいと考えていたので、コンドルの教えに当惑した。幼少の頃より芸術文化にふれる機会が少なかったからである。金吾はあきらめずに、製図室で一人図面を描いて修行した。
1879年(明治12年)、達蔵と金吾最終学年の年、首席卒業者にはロンドン留学の特典があったので、学生たちは猛勉強をして卒業制作にとりかかった。金吾は実技の設計では、泥臭いながら手堅い作品で、ほかの学生の次点につけた。続く「日本の将来の住宅について」という課題論文と学科試験で逆転し、僅差で首席に決まった。デザインの華麗さだけではなく、人々の暮らしとの調和を重んじるコンドルの評価に、金吾はちょうど当てはまった。
1880年(明治13年)、金吾は26歳でロンドンに渡る。夏目漱石がロンドンに渡る20年前である。金吾は船で中国、東南アジア、インド、アラブを経由して約40日後にロンドンに着いた。現地の学校で2年学んだ後に、フランスやイタリアにも立ち寄り、建築のスケッチをする旅をして帰国した。
大阪の本町あたりから梅田までタクシーに乗ると、必ずこの建物の前を通る。以前から気になっていたが、後に辰野金吾が設計を監修していたことを知る。
大阪生まれの株式仲買人、岩本栄之助が渡米して公共事業の必要性を感じて寄付をした資金をもとに、中央公会堂は建設された。岡田信一郎の原案をもとに辰野金吾と片岡安が設計を監修した建物は赤煉瓦の公会堂とよばれて市民に親しまれ、今もイベントやコンサートに使用され、現役で活躍する。
【 3 ふたたび欧州へ 】
1888年(明治21年)、金吾は新しく設立する日銀の設計依頼を受け、再び欧州に渡り、一年間建築デザインの調査をする。ベルギーで出会った国立銀行は、英国のビクトリア調や華やかなフランスのものとちがい、質素で小じんまりしたものだった。これが日銀のモデルになると直感した金吾は銀行に入り、案内してくれた担当者に設計者を聞いて、約束もなしに訪ねて行った。
金吾は設計者のアンリ・ベイヤールに会うと、自分の任務と国立銀行に感動した旨を伝え、デザインコンセプトをたずねた。ベイヤールは金吾の誠実さに理解を示し、自分が手がけた銀行のデザインは、常に侵略におびやかされる小国の金庫を守る要塞であると説明した。この考えに共感した金吾は日銀デザインの着想に応用した。ひたむきで地道な努力を重ねる金吾らしい成果だ。
盛岡駅からタクシーに乗って「旧岩手銀行」というと、運転手は「え?ひょっとして赤煉瓦のことかい?こっちでは皆そう呼んでいるので、聞きなれない呼び方だと一瞬わからないよね」と言われた。運転手にベストポジションと言われた場所から撮影。
運転手は再び駅に戻る途中で「もう帰るの?それじゃまた来てよ」といって市の観光案内のパンフレットをくれた。
金吾は大学教授の仕事から独立して、建築設計事務所を開設し、東京駅などの国家プロジェクトを手がけ、日本の西洋建築の礎を築いた。
金吾が東京駅に赤煉瓦を使うことに執着したのは、唐津で金吾とともに西洋にあこがれて洋学校の生徒を集め、一緒に上京して建築を学んだ盟友、曾根達蔵が手がけた丸の内赤煉瓦オフィス街と調和を保つためといわれている。
辰野金吾の赤煉瓦は、社会のどういう階層の家の子でも、努力を積み重ねれば博士になりえた、明治という時代の精神を象徴しながら、新しい時代への扉を開いた。