GUSTAV KLIMT Vienna-Japan 1900,Tokyo
写真・エッセイ/織田城司 Photo & Essay by George Oda
イントロダクション
過去最大級のクリムト展
世紀末ウィーンを代表する画家グスタフ・クリムト(1862〜1918年)の展覧会が上野の東京都美術館で2019年4月23日〜7月10日の期間、開催されています。事前のプレス内覧会で取材した見どころをお伝えします。
◆開催背景
昨年のクリムト没後100年と、本年の日本オーストリア友好150周年を記念。
副題の「ウィーンと日本1900」は、1900年(明治33年)にウィーンでクリムトをリーダーする美術団体が日本の美術品を集めて展覧会を開き、文化交流があったことに由来する。
◆展覧会の見どころ
・東京では約30年ぶりとなるクリムトの大規模展
・日本で過去最多となる25点以上のクリムトの油彩画が揃う
・代表作『ユディトⅠ』や初来日の『女の三世代』などが出品
・全長34メートルに及ぶ壁画『ベートーヴェン・フリーズ』の原寸大複製展示
・初期から晩年までの作品を揃え、作家の人生と作品の因果を紹介
(展示期間中の作品の撮影はできません。内覧会で一点撮影不可の作品は人物を写し込んで撮影)
展示概要
8章から成る展示カテゴリー別に代表作を紹介
1.クリムトとその家族
クリムトは1862年、ウィーン近郊の金工職人の長男として生まれた。クリムトが30歳のとき弟エルンストが急死。その娘へレーネの後見人になった。
写真の肖像画は6歳のへレーネを描いたもの。印象派の影響で、古典的な暗闇背景の描法から脱却し、明るい画面構成に挑戦している。このコーナーはクリムトを育んだ家族に関する作品や資料を展示。
2.修行時代と劇場装飾
クリムトは1876年、14歳のときにウィーンの工芸美術学校に入学した。1893年に卒業すると、同じ学校に通った弟エルンストと友人フランツ・マッチュと3人で「芸術家カンパニー」を設立。劇場装飾などの仕事を請け負った。
このコーナーではクリムトの学生時代の作品に加え、装飾会社を共同経営した弟エルンストと友人マッチュの絵画を紹介。古典技法の高い習熟度を見ることができる。
弟エルンストが急死すると装飾会社は解散。前衛芸術を目指すクリムトと、穏健な古典を目指す友人マッチュはそれぞれ別の道を歩んだ。
3.私生活
クリムトは生涯独身ながら、多くのモデルと関係を持ち、私生児も複数いた。このコーナーではこうした生活を物語る絵画や書簡を展示。
4.ウィーンと日本1900
19世紀末のヨーロッパで日本美術のブームが起こる。ウィーンもその渦中にあり、『17歳のエミーリエ・フレーゲの肖像』の額縁にクリムトの日本美術への憧れが感じられる。
ちなみに、モデルのエミーリエ・フレーゲはクリムトの弟夫人の妹。クリムトが生涯を通じて最も愛情を注ぎ、親しかった女性といわれている。
このコーナーではウィーンの日本ブームやクリムトの作品に見る日本美術の影響を紹介。
1900年にウィーン分離派が開催した日本展のポスター。西洋にとって新鮮だった掛軸に見られるような縦長構図が採用されている。原図は菊川英山の『鷹匠図』。
日本展にはウィーンの実業家が日本で収集した約700点の美術品が出品された。錦絵以外にも、掛軸、屏風、銅器、刀の鍔(つば)、染織、陶磁器、漆工芸品などが多数展示された。
このときクリムトは38歳。元々日本美術に興味を持ち、この展覧会の開催に尽力した。展覧会で日本の美術品にさらなる興味を持ったと推測されている。
縦長構図と平面的な衣服の模様の処理に、浮世絵の美人画の影響が見られる作品。
赤子を描いているが、構図は浮世絵の役者絵のように、布の模様を大胆にレイアウトしている。
鎧は乗馬時に鞍から下げてつま先を乗せる道具。クリムトは研究資料として日本の美術品を収集していたが、死後は戦争などでほとんど散逸している。この鎧は現存する数少ないクリムトの所有品。日本美術への関心の高さを物語る。
5.ウィーン分離派
1897年、進歩的な考えを持つ若い芸術家がたちが保守的な芸術団体から離脱。クリムトをリーダーとしてウィーン分離派を設立した。クリムトが35歳のときだった。
このコーナーは、クリムトが仲間とともに新しい芸術を創造し、展覧会で発表した代表作を集める。
クリムトがウィーン分離派を旗揚げした気概を象徴する作品。見る人に鏡を向けて真実を問う女性の上に、フリードリヒ・シラーの言葉、「汝の行為と芸術をすべての人に好んでもらえないのなら、それを少数者に対して行え。多数者に好んでもらうのは悪なり」を書いている。
クリムトの代表作のひとつ。旧約聖書外典の一場面を題材に敵将を誘惑し、酔わせて眠る間に首をとる女性を描く。背景の古代アッシリア模様の引用に歴史考証力も感じる。額縁の金属装飾はクリムトの2番目の弟ゲオルグが手がけた。
この作品にはクリムトの作風を象徴する要素が凝縮している。
・金箔をはじめて使用した作品
・女性のエロス
・女性を彩る模様
・女性の誘惑の犠牲者としての自己投影
◆壁画『ベートーヴェン・フリーズ』の原寸大複製展示
『ベートーヴェン・フリーズ』はクリムトが1902年に開催した第14回ウィーン分離派展の会場内3壁面に描いた壁画。ベートーヴェンの交響曲第9番がテーマ。巨悪と戦う騎士はクリムト自身の象徴といわれている。
6.風景画
クリムトは風景画を多く描いていない。湖水地方で夏のヴァカンスを過ごすときに描いた。重厚な前衛作品から自己を解放する気分転換のように感じる。描法はフランス印象派の影響が見られる。
7.肖像画
クリムトは自画像を含め、男性をほとんど描いていない。その思いを「自画像はない。私は自分という人物には関心がない。それよりも他の人間、女性に関心がある」と語っている。
そこまで女性を描くことにこだわった執念は鬼神迫るものがある。構図は現実の空間からはデフォルメされているが、顔の表情だけでも人となりをよく表している。社交界の女性を描くときは、富裕層特有の優雅さや知性、奥ゆかしい官能を巧みに表した。
この絵のモデル、オイゲニアはクリムトの支援者だった銀行家の夫人である。クリムトは上流階級の厳格なしきたりの下で窮屈な思いをしている女性を絵の中で解放した。古典絵画のように暗くなく、女性を女優のように華やかに描く画家として人気を得た。
8.生命の円環
クリムトは近親者の死に立ち会ううちに、人間の「生と死」をテーマにした作品を描くようになる。新しい生命を生み出す女性を様々な角度から描いた。
クリムト自身は1918年、脳卒中を発症し、入院中に肺炎にかかり亡くなった。享年55歳。
エッセイ『装飾品としての絵画』
クリムト展プレス内覧会のギャラリートークで、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館学芸員のマークス・フェリンガー氏は、クリムトの作品を以下のように解説した。
「グスタフ・クリムトにとっての絵画作品は『装飾品』であったということです。彼の風景画は自然をとらえて描いたものではありません。装飾品としての絵画でした。同じように、肖像画もある特定の人物を描くということではなく、肖像画がそのままデコラティブな装飾品として扱われていたのです。これは彼の作品すべてに共通することです」
19世紀末、ヨーロッパの画壇で新しい絵画の模索がはじまった。写真技術の登場により、前衛的な画家たちは写実的な描写よりも、画面上の線や面、色などの構成を追求した。ウィーンで『装飾品』としての絵画を描いたクリムトもそのひとりだった。
クリムトの作品の細部に、装飾性を支えた技法をいくつか見る。
◆次元
『ユディトⅠ』の金色の部分は様々な次元が同居している。金色の首輪は3次元の立体として描かれている。その背景の金色の模様は2次元の模様として描かれている。
透ける衣装に施された金色の模様の描き方は2次元にも3次元にも見え、首輪の3次元と背景の2次元をつなぐ役割を果たしている。それらを囲む額縁の金属は実物の3次元装飾として画面の金色を強調する。
『女性の三世代』の真ん中の女性の頭部を飾る小花は3次元の立体として描かれている。一方、緑の葉は整然としたリズムがあり、2次元の模様として描かれたことがわかる。背景の円形模様は2次元にも3次元にも見える描き方で、頭部の空間をまとめている。こうした次元の描き分けが絵画の装飾性を高めている。
◆時空
クリムトの作品は空中に浮遊するような人物が多く描かれている。実世界を意識したものではなく、画面の構成を重視した技術のひとつである。
◆切り抜き
クリムトの構図で多く目にする楕円形。しばし人物も楕円形に切り取られて構成され、斬新な視覚効果をもたらしている。楕円形はクリムトがこだわった人間の生命に関連する細胞や胎内を思わせる。
◆抑揚
『ユディトⅠ』の女性の目をよく見ると、向かって右の目は照明を反射する白い点が描かれているが、左の目に白い点は描かれていない。クリムトは人物すべてを描き込まず、抑揚をつけていた。顔もよく見ると細かい点描で描かれている。人の手仕事を感じる筆タッチに、写真と違う表情を追求した痕跡を感じる。
こうしたクリムトの技法は今でも参考になる。グラフィックアートやアニメーションの観点からも注目したい。それにしても、CGでもたいへんな描画を、今から100年以上も前に、手描きで実現した技術に驚く。