Trip To Movie Locations : Ueno,Tokyo
写真・エッセイ/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画の中で日本人を描いた小津安二郎監督。上野で何を見つめ、どのように作品に描いたのか。その足跡をたどります。
小津監督は上野で芸術鑑賞するのが好きだった。帰りは、うまいもの屋で飲食を楽しんだ。
こうした散歩で蓄積された土地勘や風物は映画の創作にいかされた。
広い東京
「なあ、おい、広いもんじゃなあ。東京は」
笠智衆演じる老紳士は夫人に話しかけた。
小津映画『東京物語』(1953・昭和28年作)の印象的な場面である。広島の尾道で暮らす老夫婦は死ぬ前一度、東京で働く息子や娘と会っておこうと思い、上京した。
ところが、息子たちは仕事が忙しくて親の面倒を見る余裕がない。老夫婦はあてもなく東京の街を放浪。その時のセリフである。
小津監督は、この場面のロケ地に上野の両太子橋を選んだ。広い東京を象徴する場所は他にもありそうだが、ずいぶんと地味な場所を選んだものだ。
ところが、両太子橋で笠智衆が立った場所にたたずむと、眼下には広さを感じる景色が広がっていた。無数の線路である。
両太子橋は1928(昭和3年)、上野と浅草間を結ぶため、鉄道の上に架橋された。
橋の上からは、東日本の玄関、上野駅に集まる無数の線路が見渡せる。絶えず列車が往来して、パンタグラフがケーブルと接するジジジという音が間近で聞こえる。迫力ある景色は鉄道マニアでなくても見ごたえがある。
尾道で単線しか見ていない老夫婦は、上野駅に集まる無数に線路に東京の広さを感じたのであろう。なるほど、こういう広さの表現もあるのか、と小津監督のロケ地選びに改めて感心した。
しかし、小津監督は橋の上から見渡す景色を映画に使わなかった。老夫婦の後ろ姿だけを映し、列車は走る音しか聞こえないのだ。
小津監督は「広い東京」のセリフに別の意味を持たせたと思われる。
老夫婦が橋の上から線路を見て、東京の広さを感じたのは現実だが、それが象徴することを映画の文脈として優先したのであろう。
ここでの「広い東京」は、老夫婦の失望や寂しさを表しているように見える。息子たちから迷惑がられ、もはや東京に居場所がないこと悟り、尾道に帰ることを考え始めた。
こうした心模様を描くために、線路よりも老夫婦の後ろ姿を強調したのであろう。些細な出来事だが、老夫婦の帰郷は核家族化で薄れゆく親子の絆も象徴した。
和のグラフィック
小津監督は街歩きを楽しむと、菓子屋で土産を買って帰ることが多かった。上野では1913(大正2)年に創業した和菓子舗「うさぎや」によく立ち寄った。
小津監督が通ったお店は、味の良さはもちろん、看板や包装紙など、宣伝用のグラフィックの美しさも注目である。
小津監督の映画づくりは映像に加え、俳優の衣装やタイトル文字など、視覚表現に関わるものは全て自分で手がけた。今でいえば、スタイリストやアートディレクター、グラフィックデザイナーの仕事を兼務していた。
人手不足だったわけではなく、本人が好きだったからであろう。自分で描かないと気がすまない性格でもあった。
日本の宣伝用グラフィックのデザインには、古くから毛筆が主なツールとして使われてきた。
このため、活字やペンをツールにする西洋のデザインとちがい、柔らかくて、丸みのある、独自のデザインを展開してきた。文字のみならず、デザインのアプローチにも和を感じるものあった。
小津監督もそんな和のグラフィックの美しさに注目して、日本映画らしさの演出として、積極的に活用した。
画面に和文字の看板を大胆にトリミングしたショットや、小路に様々なグラフィックの看板が混在するショットも好んで取り入れた。その目線はポップアートに通じるものがある。
「うさぎや」の和菓子のデザインや販売促進ツールにも、小津好みの和のグラフィックが見られる。
丸みや抑揚、かすれ、にじみ、などが醸し出す素朴で人間味のある表情は、CGのアプローチでは発想しにくく、新鮮に見える。
とんかつの味
「松坂屋裏のとんかつへは、よく行くんですがね」
小津映画『秋日和』(1960・昭和35年作)の一場面。法事で集まった人々が上野のグルメ談義をする中で、中村伸郎演じる故人の友人が語ったセリフである。
とんかつ屋が多い上野界隈でも、松坂屋裏といえば「蓬莱屋」である。創業は1912(大正元年)年。小津監督は戦前から通い、映画に登場するとんかつ屋のモデルにしてきた。
小津監督は脚本執筆のため、蓼科の山荘にこもった時、寂しさから綴った戯れ唄の中に「とんとんとんかつ食いたいな。蓬莱屋がなつかしや」という一節も残している。
「とんかつもうひとついいですか?うまいですね」
小津映画『秋刀魚の味』(1962・昭和37年作)の一場面。とんかつ屋の2階の座敷で、吉田輝雄演ずるサラリーマンは佐田啓二演じる先輩と結婚談義をしながら、とんかつの追加注文をする時のセリフである。この場面のセットは蓬莱屋の内装を参考にしたといわれている。
小津映画に登場するとんかつ屋の内装や登場人物の談義は、現実とわずかに違っていた。
たとえば、「蓬莱屋」の1階入り口前はカウンター席しかないが、映画に登場するとんかつ屋にはテーブル席もある。現実を元ネタにしながら、コピーに終始することなく、空想を広げ、オズ・ワールドのキャラクターとして昇華させたことがわかる。
「蓬莱屋」のかつは、豚のヒレ肉を使っているから棒状の形をしている。肉の脂分は少なく、衣も薄いため、爽やかで透明感ある香ばしさがある。
肉のキメは細かく、程よい柔らかさで、さっぱりした風味の肉汁が全体にしっとりとしみている。噛みしめると甘みと旨味を感じる。
薄い衣のパン粉は細かく、軽い口あたり。肉にしっかりくっついて崩れることはなく、肉の味を引き立てるアクセントになっている。
キャベツは千切りというより万切りで、薄く、細くカットされている。柔らかい噛みごたえがあり、かすかな甘味を感じ、肉の味とよく合う。ご飯は弾力あるかための炊き方。むかしの東京の味を今に伝えている。
ひれかつはあっさりした後味で胃の負担も軽め。映画の中で追加注文した背景もわかる気がする。
醤油でも合いそうな味と思いつつ、ウスターソースをかけると、ソースは醤油のように薄く、主張しすぎることはない。辛さを足そうと、カラシをつけると、こちらもマイルドな味。繊細な肉の味を中心に、調味料を含めた全体のバランスがおいしく調和するようにできている。
ひれかつを中心にした孤高の独自性と、和を感じる繊細な味わいが小津監督の好みと思われた。
西郷像の戦後
小津監督は太平洋戦争に出征。シンガポールで終戦を迎え、1946(昭和21)年に帰還。翌年、映画『長屋紳士録』(1947・昭和22年作)を手がけた。
小津監督は戦地で敵の銃弾をかいくぐり、友人を失うなど、戦争の悲惨さを体験したことから、映画の中に反戦メッセージを盛り込もうと考えていた。
だが、当時はアメリカ占領下。映画の内容はアメリカ軍に検閲され、リアルな戦争の表現は制限されていた。
そこで、小津監督は戦争がもたらした負の遺産を描くことで、反戦のメッセージとした。『長屋紳士録』では、そのひとつとして上野の西郷像を映している。
上野の西郷像は1898(明治31)年に完成。近くで見ると大きくて迫力があり、東京見物のランドマークとして親しまれてきた。
しかし、小津監督が1947年に映した西郷像は、見慣れた西郷像とはちがう雰囲気だった。
西郷像の台座の周りには、たくさんの子供たちが座り込んでいた。
戦災孤児である。戦争で家族と家を失い、どこからともなく上野公園に集まって来たけれど、終戦直後の混乱で行政の対応が追いつかず、野放しになっていた。
小津監督は『長屋紳士録』の中で、当時の世相を飯田蝶子演じる長屋の婦人に次のように語らせている。
「電車に乗るにしたって、人を押しのけたりしてさ。人様はどうでも、自分だけは腹一杯食おうという了見だろ。イジイジして、ノンビリしてないよ」
小津監督は戦地から帰還すると、壊滅状態になった東京に驚いた。生まれ故郷、深川の下町情緒も焼失していた。
闇の食料を競って調達しないと生きていけない生活環境は人々の心を変え、近所づきあいや思いやり、人情が失われたことを嘆き、その想いを西郷像に投影した。
動物と平和
『長屋紳士録』では、上野動物園も登場する。長屋の婦人が迷子の男の子を慰めようと上野動物園に連れて行く場面がある。
撮影時、小津監督は難問にぶつかる。上野動物園に動物はいなかった。
大戦の戦局が厳しくなった1943(昭和18)年、東京都は上野動物園に対し、猛獣の殺処分を発令した。空襲の建物破損で猛獣が逃げ出した場合の被害を防ぐためである。
上野動物園は猛獣を次々と殺処分した。対象は14種27頭。ライオン、トラ、ヒョウ、チーター、ヒグマ、ツキノワグマ、クロクマ、マレーグマ、ホッキョクグマ、アメリカバイソン、ゾウ、カバ、ガラガラヘビ、ニシキヘビなどである。
ゾウの殺処分は当初、毒入りの餌を与える方法が取られたが、ゾウが毒を感知して餌を受け付けないことから、餓死の方法に切り替えられた。
ゾウは芸をすれば餌がもらえると思い、必死で芸を繰り返すが力尽き、餓死していった。
終戦直後の1947年、小津監督が上野動物園に撮影に行くと、まだ動物の補充はなされていなかった。結局、小津監督は、唯一殺処分を免れたキリンを撮影した。
映画に映る動物園は何の変わりもないように見える。しかし、キリンしか登場しない背景はあまりにも悲惨である。そして、今たくさんの動物を見ることができる平和を想う。
国立西洋美術館は小津映画全盛期の1959(昭和34)年に開館。それが今や世界遺産になる時代である。小津映画に登場する人々の暮らしも隔世の感はある。
だが、物語の奥深くに描かれた家族の崩壊や反戦への警鐘は、時代が変わっても強いメッセージとして観る人の心に響く。その足跡をめぐる上野の散歩は、小津映画と同じく、のどかな雰囲気がありながら、重くて、にがい後味であった。