CINEMA TALK BAR
NISHI-GINZA,TOKYO
文/登地勝志 Katsushi Tochi
写真/織田城司 George Oda
007シリーズの中で唯一日本を舞台にした『007は二度死ぬ』は、ルイス・ギルバートが監督して1967年(昭和42年)に公開されました。
ショーン・コネリーが英国諜報部員ボンドを演じた作品の中では、評価が低いと言われていますが、ファンには、それなりに見どころがあります。
原作の小説を書いた英国人作家イアン・フレミング〈1908~1964)は、世界旅行の途中で立ち寄った日本に興味を持ち、執筆を抱えていた007シリーズに日本を舞台にした物語を加えました。
1959年(昭和34年)に初来日した時の印象は、戦時中のロンドンで報じられた野蛮な敵国のイメージとちがい、箱根の旅館や東京の街で出会った人たちが、真面目で優しく、好印象だったと語っています。
こうした下見は作品の中に生かされました。日本の奥深い伝統文化にも興味を持ち、
帰国後もサムライの精神や松尾芭蕉の俳句、戦国時代の忍者を描いた日本映画『忍びの者』(山本薩夫監督1962年・昭和37年作)を参考に着想を広げながら『007は二度死ぬ』を書きました。
映画版は小説を忠実に再現したわけでありません。大作映画は興行収入の予算が高いので、集客を見込んで娯楽要素を盛り込みながら企業とタイアップして資金を調達しなければならない事情があったからです。
このため、映画の中の道路にはトヨタの自動車が走り、廊下にはサントリーのポスターが貼られ、波止場にはサンヨーテレビの段ボール箱が山積みされているのです。
映画の中では、夜の銀座の街が東京の顔として登場します。メインストリートにあった森永ミルクキャラメルの地球儀型ネオンサインや、小松ストアーの看板など、西銀座のランドマークを俯瞰しながら路地裏へとカメラを移していきます。このような説明的なシーンでも、今観ると、60年代の銀座をカラーで捉えた貴重な映像と言えます。
こうしたメインストリートの様子は、映画の公開から半世紀以上経つ間に目まぐるしく変わり、当時の面影は残っていません。今も松坂屋や数寄屋橋阪急のあった場所は、新しいビルを建てる工事をしています。
ところが、一歩路地裏に入ると昔の面影が残る場所がいくつかあります。イアン・フレミングが「街の鼓動」とよんだ、いかにもスパイが潜んでいそうな、場末の雑踏です。
そば所 よし田
明治時代に創業した老舗のそば屋です。そばの製法やコストパフォーマンスを講釈するのはなく、ちょっとした肴がいくつかあって、一人でもお酒が楽しめるところが気に入っています。
夕食時は旦那衆と同伴出勤するホステスで混雑しています。旦那衆はたいてい50歳以上で、スーツかジャケットを着て、伝統を継承するためか、弟分を連れている人も少なくありません。
画廊か出版関係者なのか風呂敷包みから額に入った日本画を取り出して語り合っている一団もいます。銀座の人間模様の縮図を見るような雰囲気も魅力です。
金春湯
人がほとんど住んでいないネオン街になぜ銭湯が?と思っていました。実際に入って湯船で一緒になった人に話を聞くと、板前さんで、仕込みを終えてから開店までの間に、お客様をお迎えするために身を清めるのだそうです。街に生きるプロたちが人知れず身づくろいをする場所です。
泰明小学校
明治時代に創立した学校で、関東大震災後に建て替えた建物は東京大空襲で焼け残り、昔の洋風建築の面影を今に伝えます。
昼間見ると蔦の緑が目立ちますが、夜見るとアーチ状の外壁が印象的で、昔のギャング映画に出てきそうな雰囲気があります。
ゴジラ像
有楽町から日比谷にかけては大手映画会社東宝のおひざもとで、関連のビルや劇場が多い地域です。このため、日比谷シャンテ前の広場には東宝が生み出した世界的キャラクター、ゴジラの像が鎮座しています。
子供の頃に観た初代ゴジラが銀座の街を壊す場面は、本当に怖くて、強烈な印象が残っています。往年の映画ファンにとって、銀座といえば、ゴジラは外せないのです。
日本では007シリーズを東宝が配給していた縁で、『007は二度死ぬ』の日本ロケには、東宝系の俳優が全面協力していました。ボンドガールになった若林映子と浜美枝の二人はもちろん、忍者のエキストラの中には、若き日の竜雷太が参加していたそうです。
日本の情報機関のボス、タイガー田中役の候補には、当初、三船敏郎をはじめ、大物スターの名があがっていたそうですが、当時の日本の映画界には五社協定があり、主役級の俳優は他社の作品に出演できない決まりがあったので、準主役級の丹波哲郎が抜擢されました。
ルイス・ギルバート監督がイギリスで撮った『第七の暁』(1964年・昭和39年作)に丹波が出演した縁も要因になりました。俳優さんは人や作品との巡りあわせで、運命が変わっていくことを感じます。
ゴジラ像のプレートに刻まれている「このゴジラが最後の一匹だとは思えない」の文句は、初代『ゴジラ』(本多猪四郎監督1954年・昭和29年作)の中で、志村喬演じる博士が水爆実験の恐怖を警鐘するセリフとして使われたものです。
今読むと、映画が予想外にヒットして、その後シリーズ化したことを表現しているようにも思えます。いずれにせよ、日本の映画関係者の情熱と創意工夫への賛辞なのです。ゴジラ生誕60周年になる今年は、ハリウッド版の新作が7月25日から公開されます。
有楽町ガード下
100年ほど前に作られたJRの高架は、英国の煉瓦造りを規範にした風格のある表情です。
英国を拠点に製作されてきた007シリーズにとって、アジア圏の撮影はアウエーで、小道具の運搬には苦労したようです。
銃は撮影用とはいえ、日本への持ち込みが制限されていたので、日本でモデルガンを調達していました。
ショーン・コネリーが『007は二度死ぬ』の中で持つ銃は、ロンドンのセットで撮影した場面では、いつも愛用しているワルサーPPKモデルを使っていますが、日本で撮影した場面では、コルトのモデルを使っています。このコルトは日本の映画業界で通称「日活コルト」と呼ばれていた撮影用のモデルガンです。
引き金を引くと銃口から火花が出る電着発火式で、石原裕次郎をはじめ、日本のアクション映画で主力とした使われていた日本製のものです。このような場面を見ると、渡航が困難だった時代の日英の映画関係者の苦労がしのばれます。
インターナショナル・アーケード
イアン・フレミングが来日した頃の日本は、東京オリンピックを前に、活気があった時代です。
JR高架脇の帝国ホテルと反対側の一等地にあるインターナショナル・アーケードはオリンピックで増える外国人観光客をあてこんで、1962年(昭和37年)に開業したショッピング・モールです。
夜会に集う人々を描いた壁画が、開業当時のにぎわいをしのばせます。
今ではシャッターを閉じたお店が多く、スリリングな雰囲気が漂います。ラグジュアリーブランドの旗艦店が並ぶメインストリートの喧騒がうそのようです。
古典札幌柳麺 芳欄
日比谷の地下にある札幌ラーメン屋の壁には、近くの劇場に出演する合間に立ち寄った芸能人のサインがズラリと並んでいます。表通りから中が見えないので芸能人がお忍びで来店しやすいのかもしれません。
私語をつつしんで味を堪能するお店とちがい、気軽に劇場街の雰囲気を楽しむために利用しています。
いつも注文するのは醤油ラーメン。東京風とちがって醤油なのに味噌が濃い独特の味です。
文芸春秋社別館ビル裏口
最後にご紹介するのは、西銀座の中で、実際に『007は二度死ぬ』のロケに使われ、唯一当時の面影が残る路地裏です。
ショーン・コネリーが西銀座の路地裏を歩いてからビルのドアを開ける場面は文芸春秋社別館ビルの裏口を、みゆき通り側から撮影したものです。
老舗バー「ルパン」のある小路です。画面の中では「ルパン」の看板よりも鳥料理店「ニュー鳥ぎん」の看板のほうが目立って映っています。
ビルの裏口や看板は建て直されましたが、薄暗い路地裏の雰囲気は映画のままで、今でもボンド気分に浸れる、お気に入りの場所です。