THE TOWN WHERE YASUJIRO OZU LIVED PART5
KITA-KAMAKURA,KANAGAWA PREFECTURE
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
冬のある晩、松竹大船撮影所の火災で監督室が焼失した。日ごろ監督室に寝泊まりしていた小津安二郎監督は茅ヶ崎の旅館で脚本を執筆していたので難を逃れた。
宿無しになった小津監督は、当時本宅があった千葉県の野田市から大船に通うことは考えず、撮影所の近所で家を探した。
知人から紹介された北鎌倉の物件が気に入ると、野田に暮らす母親を呼んで移り住んだ。
1952年(昭和27年)、小津監督49歳の時である。以後1963年(昭和38年)に60歳で亡くなるまで北鎌倉で暮らし、終焉の地となった。
北鎌倉には小津監督ゆかりの映画関係者や文士が住み、映画『晩春』(1949年/昭和24年作)のロケ地に使うなど、以前から親しみのある土地であった。観光地でありながら、鎌倉ほど人通りは多くなく、今も閑静な雰囲気が残る。
小津監督が北鎌倉で贔屓にしていた飲食店のひとつは、駅前の持ち帰り稲荷すしの専門店「光泉」である。小津監督はここの折詰を来客に振る舞ったり、撮影現場の弁当に利用していた。
ふたつに切り分けられた稲荷すしの大判の油揚げは、裏の海綿のような繊維質がふっくらとしていて、甘すぎず、あっさりとした煮汁をしたたり落ちるほど含み、独自の食感と味わいを生みだしている。味もさることながら、定番アイテムを極める手法も小津監督の好みと思われた。
小津監督の北鎌倉の住まいは駅から徒歩10分程の浄智寺の近くにあった。浄智寺は13世紀に創建され、大きな樹木と古びた石材の調和が長い歴史を感じさせる。
浄智寺の脇道をのぼった先に小津監督の住まいがあり、家屋は茅葺き屋根の純和風であった。当時の小津監督の家に似た浄智寺の書院を見ながら暮らしをしのぶ。高度成長に向かう世の中とは逆に、四季折々の自然を楽しむ日本古来の暮らしを再発見していたのであろう。
小津監督は体調不良を自覚して通院すると癌が発見され、数カ月後に亡くなった。墓地は兄弟によって北鎌倉駅前の円覚寺境内に建てられた。
小津監督の墓は山肌の小高い場所にあり、墓石には「無」と刻まれている。
小津監督は戦時中に中国の戦場から知人宛に「無」とだけ書いた書簡を送ったエピソードがあることから、兄弟が墓石の文字に選び、円覚寺の僧侶による書が彫られたものである。
「この世に永遠のものなど無い」と余韻を残す小津映画の印象に通じる一文字である。
晩年の小津監督にとって、暮らしと創作の場は郊外で、東京は遠くから想う存在となっていた。小津監督の日記に「出京」という語句が見られる。東京に出かけたことを記すために使った独自の略語である。
「出京」する時はいつもスーツにネクタイ姿で正装して、業界の会合や買い物をこなし、馴染みの飲食店をめぐり、一日満喫してから終電車で帰ることが多かった。「出京」の響きには、期待と緊張に満ちた「いざ東京」の気概が感じられる。