THE TOWN WHERE YASUJIRO OZU LIVED PART4
NODA,CHIBA PREFECTURE
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画監督小津安二郎は1951年(昭和26年)の大晦日の日記に「空也のもなか買って3:26上野から野田に帰る」とある。
映画制作のため一年の大半を大船の撮影所で寝泊まりして過ごした小津監督が、年末年始の休暇に母親が暮らす野田の家に帰る途中で、銀座の和菓子店空也でお土産の最中を購入したことを記したものである。この年小津監督は48歳、『麦秋』を公開したばかりの頃であった。
空也は1884年(明治17年)に和菓子店として開業する。夏目漱石の小説に登場するなど、古くから文人墨客から庶民まで幅広く愛されてきた老舗である。
すぐに売り切れてしまっても、拡大路線に走らず、銀座の店内のみで生産して味を守り続けてきた。それも評判となり、予約注文が先行して、店の入り口には常に売り切れと書いた紙が貼ってある。
空也の最中は、皮に少し焼きを入れた「焦し皮」を使用しているので、香ばしい風味があり、あんこの甘みを引き立てている。小津監督のような酒好きの辛党でも、そそられる香りがある。
小津監督は太平洋戦争末期、軍の委託でシンガポールで戦争の記録映画を撮る準備をしていた。駐屯地には、占領の時に押収したアメリカ映画のフィルムがあり、暇な時に映写機をまわして作品を次々とチェックしていた。
当時日本ではアメリカ映画の上映は禁止されていたので、小津監督は戦時中にアメリカの最新映画をリアルタイムで観た数少ない日本人ということになる。
この時ディズニーの「ファンタジア」を観た印象を後に「こいつはいけない。相手が悪い。大変な相手とけんかしたと思いましたね」と語り、映画的技術もさることながら、戦時下に純粋な芸術作品を作る敵国の余裕に驚嘆している。
やがてシンガポールで終戦をむかえた小津監督は、イギリス軍に捕らえられ、現地の収容所で働いた後に釈放され、1946年(昭和21年)2月に帰国する。
小津監督は復員すると、母親の疎開先である千葉県の野田市におもむき母親と一緒に暮らす。しばらく仕事から離れて休養したかったが、それも束の間で会社からの催促で撮影現場に復帰した。
今も野田には、小津監督が暮らした当時からある古い建物が残る。中でもひときは目立つのが興風会館だ。興風会館は野田に本社を置いて醤油の製造と販売を手がけるキッコーマン株式会社が1939年(昭和4年)に地域振興のために建てた文化施設である。設計は大森茂が手がけ、碑文に記されたデザインコンセプトは「ロマネスクを加味した近世復興式」である。
現在、キッコーマン株式会社の関連会社である千秋社が使用するビルは、かつて野田商誘銀行として1926年(大正15年)に建てられたものである。
利根川と江戸川に挟まれた野田は古くより、豊富な水系を利用して大豆栽培と醤油の醸造が発達し、水運を利用して、いち早く江戸に運ぶことで栄えてきた。中でも醸造家が合併することで大きくなったキッコーマン株式会社は地元を代表する大手企業として工場の他にも様々な文化施設を運営している。
野田市でもうひとつの醤油の名門がキノエネ醤油である。経営者の家系に小津監督の妹が嫁いだ縁で、母親と弟が疎開先として身を寄せていた。
キノエネ醤油は1830年(天保元年)に創業して、木造の本社社屋は1897年(明治30年)に建てられたものを現在も使用している。
小津監督はキノエネ醤油の経営者一族に家族が世話になったお礼として、1959年(昭和34年)に公開した映画「お早よう」の中で笠智衆が暮らす家の茶の間にキノエネ醤油の卓上瓶や段ボールケースを登場させている。
小津監督の母親が疎開して、最初に間借りしたのは街道沿いの床屋、しこくやの二階であった。しこくやは現在も同じ場所で床屋を営む。街道沿いには昔ながらの商店や横丁が広がる。
小津監督は北鎌倉に引っ越した後の1960年(昭和35年)に映画『秋日和』のゴルフのシーンを撮影するため、野田に住んでいた頃の土地勘を生かして、千葉カントリークラブの野田コースをロケ地に選んだ。
小津監督はゴルフ場の撮影を早々に済ませると、ゴルフの場面に登場しない笠智衆や親しい仲間とゴルフを楽しみ、ゴルフ場に近い旅館「山ふじ」に2泊している。
戸澤写真館は小津監督が復員した時に家族で記念撮影をした写真館である。現在もその時のモノクロ写真の複製が飾ってある。
小津映画には、家族が正装して記念写真に収まるシーンが数多く観られる。いずれ離ればなれになってしまう人々の一瞬を収める記念撮影に、この世の無常観を表現していたものと思われる。
清水公園は1894年(明治27年)に開園した県下有数のレジャー施設である。豊かな自然の中にフィールドアスレチック場やキャンプ場などがある。小津監督も家族と度々訪れて記念写真を撮影していた。
清水公園は江戸川の河川敷に隣接している。東京湾に近い江戸川下流はマンションが目立つが、上流の野田周辺は、かつて小津監督も見たであろう原生の景観が残っている。
小津監督は正月休みを野田で満喫すると、愛宕神社前のバス停から松戸駅に向かい、列車を乗り継いで大船の松竹撮影所に出社した。
愛宕神社の歴史は古く、この地が開墾された923年(延長元年)に創建され、現在の本殿は1824年(文政7年)に再建されたものである。
境内にある力石は醤油樽の重石を力自慢の衆が肩まで持ち上げることを競い、勝者の名を刻んで奉納したもので、一番古いものは1756年(宝暦6年)までさかのぼる。
小津監督は復員してから北鎌倉に引っ越すまでの6年間を野田で暮らした。青春時代に暮らした松阪同様、郊外特有の雄大な自然と歴史、地場の産業と商人文化、町内の人々との交流を創作の糧として蓄積した。
大船にあるレストラン・ミカサは松竹撮影所が蒲田から大船に移転してきた頃の1936年(昭和11年)に開業した鎌倉市の洋食レストランの草分けである。小津監督をはじめ、大船撮影所に通う映画関係者は必ず利用したお店で、今年改装して内外装ともに刷新されたが、往時のメニューは継承している。
メニューのなかで、忙しい映画撮影スタッフがフォーク一本で食べられるように工夫されたカツメシは有名だが、オムライスも男性的で特徴がある。
見た目の小ぎれいさよりもボリューム感を重視して、多めのチキンライスの上に、たっぷりと卵を使ったオムレツを乗せる。
食べていて飽きがこないように、オムレツにかけるソースはトマトケチャップとキノコのデミグラスソースの2種が用意されている。キノコのデミグラスソースは濃厚で辛口である。
松竹大船撮影所は映画産業の衰退から、2000年(平成12年)に閉鎖され、撮影所の跡地は鎌倉女子大学やショッピングセンターに売却された。
小津監督が寝泊まりして名画の多くを制作した撮影所の面影は、近所の飲食店のメニューと、交差点やバス停の一部に松竹前という名を残すのみであった。