Trip To Movie Locations : Hongou and Koishikawa, Tokyo
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
映画ゆかりの地を歩く連載コラム『名画周遊』
今回は、夏目漱石の小説を市川崑監督が1955(昭和30)年に映画化した『こころ』の舞台、本郷と小石川をめぐりながら明治の文化を探訪します。
学生街の散歩道
今年、夏目漱石は忙しい。
没後100年にあたり、各地でイベントが開かれている。来年は生誕150年にあたり、休む暇がない。本人はこの現象をどのように思っているのか。
漱石は生前本が売れず、安い家賃の物件を求めて引っ越しを繰り返していた。行く先々で散歩を楽しみ、途中の景色や風物を小説に生かしていた。
東大に通った縁で、本郷と小石川の界隈には長く暮らし、小説に登場する場所も多い。今回はその中でも『こころ』にゆかりがある地を歩いた。
『こころ』は漱石が1914(大正2)年に朝日新聞の連載小説として発表。大学生の「私」が「先生」と慕う男と交流することを通して、心の葛藤を描く物語である。
「先生」が東大生時代に「友人K」と下宿から通学する場面で、本郷と小石川の町なみが度々登場する。描写から推定すると、下宿の設定は伝通院と小石川植物園の間の住宅地と思われる。
【 東大生時代の「先生」が下宿を探す場面 】
ある日私はまあ宅(うち)だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に伝通院の方へ上がりました。
電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、その頃は左手が砲兵工廠(ほうへいこうしょう:注1)の土塀で、右は原とも丘ともつかない空地に草が一面に生えていたものです。(『こころ』より)
注1)日本陸軍の兵器工場のこと。水戸黄門で知られる水戸藩屋敷の跡地に作られた工場で、日清・日露戦争で使う銃などが作られた。関東大震災で壊滅状態になると移転し、跡地は売却され、今は東京ドームシティや小石川後楽園、文京区役所、中央大学などになっている。
「電車の通路になってから」とは、明治末期に都市計画から春日通りが拡張され、路面電車が走り出したこと。今の春日通りから左手に中央大学を見たあたりのことを描写している。
【 東大生時代の「先生」が下校する場面 】
十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔(こんにゃくえんま:注2)を抜けて細い坂道を上がって宅(うち)へ帰りました。(『こころ』より)
注2)源覚寺の閻魔像のこと。昔、ここの閻魔様の御利益があった老婆が感謝の意を込めてコンニャクを供えた言い伝えからこの愛称で親しまれている。
【 東大生時代の「先生」が「友人K」と散歩する場面 】
私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院の裏手から植物園(注3)の通りをぐるりと廻ってまた富坂の下に出ました。散歩としては短い方ではありませんでしたが、その間に話した事は極めて少なかったです。(『こころ』より)
注3)小石川植物園のこと。1684(貞享元年)に徳川幕府が設けた「小石川御薬園」が前身で、1877(明治10)年に東大が設立されると付属植物園となり、一般にも公開された。
江戸時代、ここの一角に養生所があり、山本周五郎の時代小説『赤ひげ診療譚』の題材となった。赤ひげ先生が往診する場面に伝通院や小石川の町なみが登場する。後に黒澤明監督によって『赤ひげ』のタイトルで映画化された。
現在、本郷と小石川界隈には、漱石が散歩をした頃の面影はほとんど残っていないが、伝通院と源覚寺、小石川植物園は当時と同じ場所にあり、漱石の散歩を追体験する時に格好の目印となる。
この3か所をめぐると、漱石が「散歩としては短い方ではありませんでした」と、書いたことを実感した。
漱石の小説は、映画やテレビでも度々実写化されてきた。その先駆けとなったのが市川崑監督が1955(昭和30)年に手がけた『こころ』である。
小説から読者が受ける印象は百人百様だが、1本の映画に作り上げようとすると、それなりに重責を感じるのであろう。数々の文芸映画を手がけた市川崑は、そのプロセスについて、
「映画でしか表現できないものを創ろうと気負いながら、結果は原作にお辞儀してしまった」
と、語っている。その中でも初期の作品にあたる『こころ』は、映像的な冒険は控え、小説を忠実に再現していた。
配役は「先生」に森雅之、「奥さん」に新珠三千代、「友人K」に三橋達也、「私」に安井昌二が選ばれた。いずれも主役級の名優ばかりで、映画版『こころ』の世界を見事に演じ、その気迫に思わず引き込まれた。
食卓のハイカラ
映画版『こころ』の見どころは、名優たちの演技に加え、明治の生活文化の再現にもある。
市川崑は時代考証を永井荷風の「濹東綺譚」の挿絵で知られる画家の木村荘八に依頼。セットや小道具にも、こだわりを見せていた。
今の本郷と小石川界隈の飲食店には、漱石が通ったお店は残っていないけれど、『こころ』の食事の場面に出てくるメニューをいただきながら、明治の人々が西洋文化を取り入れたことに想いをめぐらせた。
【 「先生」の家の晩餐の場面 】
私はその晩先生の家へ御馳走に招かれて行った。これはもし卒業したらその日の晩餐はよそで喰わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。
食卓は約束通り座敷の縁近くに据えられてあった。模様の織り出された厚い糊の硬い卓布(テーブルクロース)が美しくかつ清らかに電燈の光を射返していた。
先生のうちで飯を食うと、きっとこの西洋料理店に見るような白いリンネル(注4)の上に、箸や茶碗が置かれた。そうしてそれが必ず洗濯したての真白なものに限られていた。(『こころ』より)
注4)リネン(亜麻)のこと。寒冷地に生育する草から採れる繊維から織られた生地で、チクチクする麻の品種と違い、柔らかくて肌に優しい手触りがあることからヨーロッパでは古くから衣類や生活雑貨の素材として親しまれてきた。
『こころ』の背景になった明治末期には、洋食もレストランで楽しむ料理から、家庭でのもてなし料理へと変わりはじめていた。しかし、家屋の大半は純和風のままだったので、お座敷の座卓の上に白いリネンのテーブルクロスを敷いて、つかの間の西洋気分を演出していたのであろう。
映画もこの場面を忠実に再現しているが、小説に晩餐の献立が書いてなかったので、市川崑は食卓のメインディッシュにトンカツ選び、ヴィンテージラベルを貼ったエビスビールの瓶を置いて明治の雰囲気を演出した。
奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後に、改めてアイスクリームと水菓子(注5)を運ばせた。
「これ宅(うち)で拵(こしら)えたのよ」
用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞うだけの余裕があると見えた。
当時は、家庭で洋食を振る舞えることがハイカラな主婦のたしなみとされ、家庭用の洋食本も書店に並び始めていた。
その中のひとつ『食道楽』には、家庭でのアイスクリームの作り方が挿絵入りで紹介されていて、材料を入れた茶筒を、氷と塩を入れた桶の中で回すものであった。
注5)水菓子とはフルーツのこと。今は、水分の多いスイーツ類にも使われるようになったが、明治時代はフルーツのみを指す言葉だった。
映画の中では「奥さん」が紅茶を入れる場面も度々見られる。紅茶はロンドンに留学していた漱石の好みが感じられ、市川崑もそれを尊重したのであろう。
和服姿の「奥さん」が茶箪笥から銀器とティーカップを取り出しながら紅茶を入れる和洋折衷感を丁寧に映している。
坂の上の明治
NHKの朝の連続テレビ小説には、戦後の混乱期が度々登場する。当時を懐かしむ気持ちもあると思われるが、世の中の変わり目に、人々はどのように行動したのか、ということへの関心もあるだろう。
その戦後の混乱期、1955(昭和30)年に映画『こころ』は公開された。当時は漱石の小説のみならず、明治の文豪の小説が相次いて映画化されていた。
ざっと見ただけでも、樋口一葉の『にごりえ』(1953年作監督/今井正)や『たけくらべ』(1955年作監督/五所平之助)、森鴎外の『雁』(1953年作監督/豊田四郎)や『山椒大夫』(1954年作監督/溝口健二)、伊藤左千夫の『野菊の如き君なりき』(1955年作監督/木下恵介)などがある。
戦後の混乱期の人々は、世の中の変わり目の参考として、明治の人々の生き方に関心があったのだろう。そんなことを想いながら、本郷と小石川界隈にある漱石の旧居跡を歩いた。
【 明治天皇の大喪の礼の場面 】
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終わったような気がしました。(中略)私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。
(中略)御大装の夜私はいつもの通り書斎に座って、相図の号砲を聞きました。私はそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。
明治天皇の大喪の礼の場面は、映画の中でも丁寧に映され、当時の現場を目の当たりにするよう「映画でしか表現できないもの」の迫力を感じた。
この場面の「先生」の心情は、漱石自身の想いであろう。
明治時代は欧米列強に追いつく近代国家を作るため、人々は文明開化という坂道を駆けのぼり、漱石も英語と文学の研究に精進した。時には神経衰弱になり、胃潰瘍と闘いながら、後進の指導にあたった。
だが、文明の矛先が軍国主義に向けられると、自分は何のために近代化を推進してきたのかと自問自答し、国家の行く末を憂いた。
戦後の混乱期の人々も、映画を観ながらそのことを思い返し、新しい時代を模索したのであろう。
漱石が『こころ』を発表した頃、日本は第一次世界大戦に巻き込まれていく。漱石はその顛末を見ないまま、2年後に亡くなった。それから100年である。