名画周遊:矢切

Trip To Movie Locations : Yagiri , Chiba Prefecture
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

映画ゆかりの地を歩く連載コラム『名画周遊』

今回は、山口百恵や松田聖子など、稀代のアイドルが悲劇のヒロインを演じた『野菊の墓』の舞台で、演歌でも有名な、千葉県の矢切を訪ねます。

渡し場の町

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JR松戸駅前

伊藤左千夫が1906年(明治39年)に雑誌「ホトトギス」に発表した小説『野菊の墓』は多くの人々の心をとらえ、映画やテレビでも何度か実写化された。

同じ頃、「ホトトギス」に小説を投稿していた夏目漱石は、『野菊の墓』を読むと感動して、伊藤左千夫に「名品です。自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です。あんな小説なら何百編よんでもよろしい」という手紙を送っている。

伊藤左千夫が描き、夏目漱石が絶賛した「野趣」は、今もあるのかと思い、ゆかりの地を訪ねた。

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JR松戸駅前

『野菊の墓』は、千葉県の松戸と市川の間にある、矢切という小さな村が舞台。

農家の少年、政夫(まさお)と、家事手伝いに来ていた少女、民子(たみこ)の悲恋を、明治時代の田園風景の中に描いた物語で、今も残る地名が登場する。

松戸は、政夫が母親の薬を取りに行く町として、市川は、民子の実家がある町として描かれている。どちらも、江戸時代から千葉県の玄関口として栄えた町である。

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JR松戸駅前

江戸幕府は治安維持のため、江戸への出入を厳しく規制して、千葉県との境にある江戸川には橋をかけず、渡し舟の往来に限っていた。このため、水戸街道の松戸や成田街道の市川などの渡し場には宿場町ができた。

政夫と民子が出会った明治の末、松戸や市川にも鉄道が伸びる。だが、矢切村から町への道のりは、まだ江戸時代のままで、政夫と民子は江戸川の渡し舟か、徒歩で移動していた。

戦後、高度成長時代をむかえると、松戸と市川は首都圏に近いベットタウンとして大きな市に発展。今は、駅前に高層マンションが建ち、政夫と民子が歩いた頃の面影は残っていなかった。

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JR市川駅前
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JR市川駅前
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JR市川駅前

丘の上の家

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千葉県道1号 市川・松戸線 京成電鉄国府台駅付近

政夫と民子が住んでいた農家は、矢切村の中でも江戸川から少し離れた小高い丘の上にあった。

今でも、松戸や市川から矢切の町域名が付く場所を目指すと登り坂が多く、丘陵地帯に向かうことを感じる。

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千葉県道1号 市川・松戸線 下矢切地区

そもそも『野菊の墓』は、伊藤左千夫が矢切村の農家に牧童として住み込んだ若い頃の経験と、虚構を交えて書いたものとされている。

この農家が、政夫の家のモデルと思われるが、具体的な場所の記録は無く、小説の描写から推定すると、今の矢切小学校のあたりとされている。いずれにせよ、このあたりも住宅で埋め尽くされ、坂道のみに物語の面影が感じられた。

『野菊の墓』の映画やテレビが撮影された昭和時代、すでに矢切の宅地開発は進んでいたので、田園風景のロケは、信州などの代替地で行われていた。

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松戸市立矢切小学校
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下矢切地区の坂道

山の弁当

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里見公園から江戸川と東京方面を望む

政夫はある日、母親の言いつけで、民子と一緒に綿を摘みに行く。政夫の家の畑では、野菜だけでなく、綿も栽培しながら織物や生活用品に加工していたのであろう。綿を収穫した場所は、今の里見公園の近くと推定されている。

現在、該当する地に綿畑は無いが、里見公園の一部に古来からある林が残されていた。林の中では大木の葉が空を覆い、風が吹くと木漏れ日が揺れ、かつての田園風景を思わせる雰囲気があった。

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里見公園

政夫と民子は綿摘みの目処がつくと、山の斜面に座って、母親が持たせてくれた弁当を食べている。その時の政夫の感想を伊藤左千夫は次のように書いている。

「山の弁当と云えば、土地の者は一般に楽しみの一つとしてある。何か生理上の理由でもあるか知らんが、とにかく、山の仕事をしてやがてたべる弁当が不思議とうまいことは誰もが云う所だ。」(伊藤左千夫『野菊の墓』より)

山で食べる弁当は、いかにもうまそうだ。里見公園で弁当を食べれば、物語の「野趣」を少しは再現できると思い、近くの町で弁当の惣菜を調達することにした。

ところで、政夫と民子が食べた弁当の惣菜は何だったのか。再度、小説を読むと、母親が女中に弁当の惣菜を指図する場面の記述は「お菜はこれこれの物で‥‥」とあり、省略されていた。このため、実写化した映像作家の解釈を紐解くことにした。

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里見公園

まずは、山口百恵が民子を演じたテレビドラマ版。1977年(昭和52年)に土曜ワイド劇場の特別番組として作られたもので、監督は山口百恵の映画を多く手がけた西河克己が担当した。

母親を演じた南田洋子は、女中に弁当の惣菜を指図する場面で「ご馳走を作ってやれ」としか語っていなかった。

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テレビドラマ『野菊の墓』のDVD 主演/山口百恵

弁当の手がかりは途切れるが、山口百恵が弁当を食べる場面を観ると、曲げわっぱ弁当であった。

曲げわっぱは小判形の一段物で、底に詰めたご飯が見えないくらい惣菜が乗っている。政夫に横恋慕していた女中が意地悪をして、政夫の嫌いな鶏肉を惣菜に忍ばせる、小説には無いエピソードも挿入されていた。

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里見公園に持参した曲げわっぱ弁当。惣菜は伊勢丹松戸店で調達(器は撮影用に別手配)
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里見公園

次に参考にしたのは、1955年(昭和30年)に作られた映画『野菊の如き君なりき』。監督の木下恵介は民子の初々しさを演出するため、当時無名の新人だった有田紀子を抜擢。ベテラン俳優で脇を固めた。

この策は見事に当たり、映画は高い評価を受け、同年のキネマ旬報ベストテンで3位にランクした。

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映画『野菊の如き君なりき』のDVD 主演/有田紀子

母親を演じた杉村春子は、女中に弁当の惣菜を指図する場面で「玉子を焼いてな、干物も焼いてやるといい」と、献立を具体的に語っていた。

弁当を食べる場面を見ると、主食は塩にぎりであった。白黒映画なので、海苔を巻いたおにぎりよりも、白一色の塩にぎりの方が映り栄えが良かったのであろう。

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里見公園
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映画『野菊の墓』のDVD 主演/松田聖子

1981年(昭和56年)に作られ、松田聖子が民子を演じた映画『野菊の墓』の監督は、澤井信一郎が手がけた。

母親を演じた加藤治子は、女中に弁当の惣菜を指図する場面で「玉子と鮭でも入れてやってくれ」と語り、主食も塩にぎりで、木下恵介の演出と共通点が多く見られた。

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里見公園に持参したおにぎり弁当。惣菜はシャポー市川店で調達(塩にぎりと器は撮影用に別手配)

里見公園で弁当を食べると、政夫が「不思議とうまい」と思ったことを実感することができた。オープンエアの食事の魅力は、今でこそ広く知られているが、明治時代から語り継がれ、文章で表現されていたことに驚く。

『野菊の墓』の小説が発表された明治30年代、食文化のトレンドは、文明開化の影響から洋食ブームの渦中にあり、庶民向けの西洋料理本が相次いで出版されていた。

夏目漱石もそんな世相を意識して、ハイカラな人たちが洋食をたしなむ場面を小説に取り入れていた。このため、伊藤左千夫が「野趣」の中に、食の本質を描いたことを、新鮮に感じたのかもしれない。

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里見公園

無情の舟

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矢切の渡し

政夫は村祭りが終わると、千葉の旧制中学(現在の県立千葉高校の前身)に入学することになった。寄宿舎暮らしが始まるため、民子としばらく会えなくなる。

政夫は入学する日の朝、千葉行きの汽車に乗るため、矢切から舟で市川駅へ向かった。渡し場には、民子と女中が見送りに来ていた。

政夫は、舟が早い速度で江戸川を下ると「無情の舟」と思い、渡し場で民子が「しょんぼり」している姿が忘れられなかった。政夫と民子は、これが永遠の別れになるとは、思ってもいなかった。

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矢切の渡し場

矢切の渡しは江戸時代、江戸川の両岸に田畑を持つ農民が、耕作のために関所を通らずに往来することが許されていた舟の便が起源になる。

近年は、江戸川に唯一残る渡し舟として、矢切と柴又を約10分で結ぶ貴重な交通手段、かつ観光資源として活躍している。細川たかしが1983年(昭和58年)に唄った矢切の渡しの演歌は、同年のレコード大賞に輝いた。

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矢切の渡しをこぐ艪(ろ)

矢切の渡しに乗って江戸川を渡ると、両岸にそびえる土手が、外界の景色と音を遮るので、艪(ろ)をこぐ乾いた音と、魚が跳ねる音ぐらいしか聞こえなかった。水面の微風とともにゆっくり漂う舟に、昔のままの田園風景を感じた。

船頭さんが「あ!今、遠くに見える京成電車の鉄橋を、新型のスカイライナーが通過します」と説明しても、乗客は見向きもしない。皆、つかの間の「野趣」を楽しみたいのだ。

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矢切の渡し

明治時代、欧米列強に追いつく近代国家を作るため、文明開化が提唱されると、文豪たちもその想いを作品に託した。

夏目漱石のように、ハイカラな生活を描く手法もあれば、伊藤左千夫のように、旧態然とした風習が招く悲劇を描くことで、新しい時代を浮き彫りにする手法もあった。

伊藤左千夫が物語の味付けに使った矢切周辺の「野趣」は、やがて文明に侵食されて滅びる運命にあり、その郷愁感も演出と思われた。後の人々によって、わずかながら保存されたことに、面白さを感じる。

帰りに、政夫と民子が夕日を眺めた場所をイメージして作られた展望台、野菊苑に立ち寄った。柵の前で2匹の猫を見かけると、政夫と民子がいるような気がした。

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矢切の渡し場
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野菊苑
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江戸川河川敷の野菊
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江戸川河川敷の野菊