太陽を追いかけて

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

暦のうえでは立春をすぎたが、欧州は記録的な大寒波で、日本列島も週末にかけて再び寒気が流れ込む見込みだ。春の日ざしを探しているうちに、太陽を追いかけた画家ポール・ゴーギャン(1848年生まれ1903年没)のことを思い出した。

パリに生まれたゴーギャンは古典絵画や新進の印象派にも馴染めず、独自の画風を模索していた。その頃、日本の浮世絵と出会い「平明で穏やかな画風は呼吸と同じく単純で新鮮に感じる」として自己の画風に取り入れていった。画風を突き詰めていくうちに、物を平坦に見せる太陽の下での制作環境を求め、南太平洋のタヒチに渡り、独自の画風を確立して美しい作品を残した。

太陽光線の角度は緯度によって異なる。天文学的な解説は専門の方におまかせするとして、おおまかには、赤道付近のタヒチでは年中真上からの太陽光線、欧州のパリでは年中斜めの太陽光線、日本では夏の真上の太陽光線と冬の斜めの太陽光線が交互に現れ、年間の振幅が広く変化に富む。

太陽光線の角度は地域の気候風土に影響し、人々の情緒や芸術文化にも影響を及ぼす。斜めの太陽光線は立体に光と陰をバランス良く配置する。このため欧州の建物の表面には陰影の効果を生かす彫りの深い装飾が施されている。日本の建物は夏の真上からの太陽光線を遮り、冬の斜めの太陽光線を室内に取り入れる設計が基本となり、屋根やひさしの形が工夫されている。

諸外国での異国情調は、言語や食事はもちろん、太陽光線にちがいに感じる。フィレンツエのホテルに夜チェックインして、翌朝部屋の窓を開けた時に見える何気ない街並の風情は安くて小さな部屋でも「眺めのいい部屋」に思える。古い建物の素朴な形も印象的だが、それらを引き立てる斜めの太陽光線の存在感は独特である。同じ建物を日本の山奥に建てても同じようには見えない。日本の五重塔を南仏に建てても感動は得られないであろう。

服に使う生地も同じことで、同じ生地でも欧州で見るのと日本で見るのでは太陽光線の角度が異なるので色彩と表面の印象は変わる。そのまま模倣するのは簡単だが、翻訳、意訳の加減が難しい。

かつて東南アジアに在住している日本人商社マンと話す機会があった。私が「年中リゾートのような場所に暮らして、うらやましいですね」と言うと、商社マンは「よく言われますが、年中真夏なので情緒というか、記憶があいまいになってしまうのです」と語った。日本人は無意識のうちに物事の印象を豊かな四季と結びつけて記憶するのであろう。浮世絵の修辞はそれを巧みに使う。日本にいると、なかなかそのことに気が付かない。日本にしかない日ざしが生み出す「平明で穏やかな」風情を見直したい。

ゴーギャンが生きた時代、日本は明治維新で西洋文化を必死で模倣して、パリではジャポニズムがブームだった歴史のめぐり合わせは皮肉である。