第4回南三陸町植樹祭

MINAMISANRIKU-CHO,MIYAGI PREFECTURE

写真・文/織田城司 Photo & Report by George Oda

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南三陸町から志津川湾をのぞむ

宮城県の南三陸町は、2011年3月11日に発生した東日本大震災で、死者611名、行方不明者237名という甚大な被害を受けた。

東日本大震災の復興支援活動をおこなう一般社団法人「ルームニッポン」は5月10日、毎年恒例の桜の植樹祭を南三陸町で開催した。

この植樹際は「ルームニッポン」のプロジェクトのひとつで、津波で多くの木が流された南三陸町に、20年間で3000本の桜を植えて、東北一の桜の名所にしようという計画の記念行事で、震災の翌年から年1回開催して、今年で4回目をむかえる。

服飾ディレクターの赤峰幸生氏は、この桜の植樹祭に参加するために、南三陸町を訪ねた。

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桜の植樹祭に参加するため東北新幹線くりこま高原駅に降りた赤峰幸生氏(左)と「ルームニッポン」を主宰するドーメル・ジャポン㈱加賀美由加里社長

語り部さんの教訓

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南三陸町戸倉地区の高台から志津川湾をのぞむ

南三陸町には、モアイ像が随所に建っている。これは、1960年(昭和35年)に発生したチリ地震による6mの津波で、41名の犠牲者が出たことを未来に伝え、防災に役立てようと、チリ領イースター島のモアイ像をモチーフにして、記念碑としたものである。

戸倉地区の高台にある2体のモアイ像は、高台の下にある、海岸のパーキングエリア「さわやか公園」の目印として建てられた樹脂製のものだ。東日本大震災の津波は、このモアイ像をはるかに越える高さで押し寄せたので、破損して、現在修復中である。

チリ地震の教訓は、東日本大震災で生きたのであろうか。

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東日本大震災が発生すると、津波が来る直前、志津川湾の底が見えたという。

植樹祭の会場に向かうバスの中で、信じられない光景を語るのは、南三陸町観光協会ガイドサークル汐風の菅原さんで、東日本大震災の教訓を次世代に伝える「語り部さん」のひとりとして活躍する婦人である。

菅原さんの母親はデイサービスで被災して、行方不明のままだという。菅原さんは毎年この時期、カーネーションを見るのが辛いと言いながら、震災当時の状況を語った。

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志津川湾にチリ地震の津波が押し寄せた55年前、菅原さんの友人は、当時小学6年生で、おじいさんから

「海の底が見えたぞ!おっきな津波来っから、高い所に逃げろー!」

と言われると、すぐに高台を登って助かった経験をもつ。

友人は、東日本大震災が発生して、志津川湾の底が見えると、かつて、おじいさんから言われたことと、まったく同じことを、家にいた孫に言って高台を登った。孫とはぐれて間もなく、家の周辺は津波にのまれた。

友人は、孫に声をかけるだけでなく、なんで手を引いて連れて来なかったのだろう、と悔やんでいると、高台から見下ろす津波の上に、自分の家の屋根が流れてきて、その上には、孫が乗っていた。大声で孫を呼び続けると、孫は屋根が陸に接触した瞬間、陸に飛び移り、九死に一生を得た。

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旧戸倉中学校の時計

戸倉地区のモアイ像に隣接する戸倉中学校は、海抜19mの高台にあり、指定避難場所になっていた。だが、目の前の小さな湾によって集約された津波は20mほどの高さになり、モアイ像をはるかに越えて押し寄せて来た。

この津波の影響で、戸倉中学校は廃校になり、校舎の時計は、地震が発生した午後2時46分に故障したまま止まっている。

地震が発生してから、津波が襲う午後3時35分までの約50分の間に、戸倉中学校の校庭は、町から避難して来た住民の車で埋まっていた。

昔からこの地には「地震が起きたら、ずっと山を登る」という言い伝えがあったのに、住民や生徒は、まさか津波はここまで来ないだろうと安心していると、あっという間に押し寄せた津波は、校舎の時計のすぐ下の高さになり、逃げ遅れた2名の命を奪った。

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旧戸倉中学校の前で語り部さんの話を聞く赤峰幸生氏
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津波で破損した校庭の渡り廊下
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窓越しに見る黒板の予定表には、震災の翌日に予定されていた卒業式の表記が残る
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旧戸倉中学校近くの高台で、3年前に植えた桜を握る赤峰幸生氏
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旧南三陸町防災対策庁舎

防災対策庁舎があった地区は、高さ15mの津波が押し寄せ、高さ12mの庁舎を、あっという間にのみ込んだ。

その時、屋上に避難していた人は、ほとんど流されてしまい、非常階段にいた人が奇跡的に助かった。非常階段は、短い金属の棒が幾重にも溶接されていて、丈夫なうえに、手足をからませて体を固定することができたので、津波が押し寄せても流されなかった。

菅原さんによると、今回の震災で生死を分けたのは「場所」であり、

「皆さんも、常日頃、自宅や職場で、どこが自分の命を救ってくれる場所なのか、意識して見ることで、災害時に生存する確率が高くなる」

と語り、最後は

「南三陸町は、太古の昔から幾度となく津波で被災しているのに、その教訓が生かされず、今回多くの犠牲者をだした。災害なんかで死んでる場合ではない。次に大きな津波が来る時、私はこの世にいないかもしれないけれど、南三陸町の死傷者をゼロにすべく、今回の教訓を語り継ぐ」

と力説した。

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南三陸さんさん商店街

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南三陸町の名物はタコで、古くから「西の明石、東の志津川」と言われて親しまれている。このほか、銀サケは、養殖発祥の地としてゆかりが深い。

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今回は、乾物を中心に買い物をしたという赤峰幸生氏の旅の友は、ミラノで1871年に創業した老舗ハンティング用品店RAVIZZAのオリジナル・サファリジャケットとフランス軍のミリタリーベスト。

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桜の記念植樹

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今回は、建設中の(仮称)南三陸総合病院の隣接地に桜を植樹
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桜の苗木を前にした赤峰幸生氏と今回桜の苗木を55本寄贈した㈱オンワード樫山から代表で参加した関口猛執行役員(中央)その右は佐藤仁南三陸町長^

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毎年この植樹祭に参加している赤峰幸生氏は

「最初に植樹祭に参加した時は、被災地の惨状を見て、もっと南三陸町のためにできることはないかと思ったけれど、結局、何もできないまま、1年経ってしまうことを無念に感じ、悩んだりもした。

しかし、気持ちばかり焦っても、実際に、東京で仕事や生活を抱えていると、南三陸町に頻繁に通う事はできない。

このため、南三陸町のために、直接何かするのは、年1回の植樹祭の機会に桜を植え、商店街で買い物をすることにして、あとは、生きている者として、世のため、人のために役立つことをきちんとやっているのかどうか、ということを意識するようになった」

と語り、震災から4年経過するなかで、自分なりの支援のありかたを模索している。

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さらに、赤峰幸生氏は、

「自分が半世紀かけてやってきたことは、紳士服を通して、人々の生活を豊かにすることで、今後は、そこで得たことを、次世代に継承することを考えなければならない」

と語り、紳士服の「語り部」としての活動に意欲を示した。

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桜の苗木は、プロジェクトをはじめてから現在までの4年間で1000本集まり、予定より早いペースで進行している。

ところが、被災した土地の復旧工事が追いつかず、桜を植える場所は、思うように確保できていない。

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