名画周遊:茅ヶ崎館

TRIP TO MOVIE LOCATIONS
CHIGASAKI-KAN,KANAGAWA PREFECTURE

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

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1953年(昭和28年)、春分の日の昼下がり、映画監督小津安二郎は、脚本執筆のために泊まり込んでいた旅館の部屋で、掃除に来た女中から

「あらァ…また、お昼寝ですか。いったい、いつお仕事なさっているんですか」

と言われると、ニヤッと笑っただけで、また布団をかぶってしまった。

すでに、日本映画界の第一人者になっていて、次回作『東京物語』の執筆に取りかかっていた小津監督だが、居候のように素っ気なく扱う茅ヶ崎館が気に入っていた。

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茅ヶ崎館は1899年(明治32年)、相模湾を見渡す景勝地に、東海道線茅ヶ崎駅が開設されたのを機に、観光客を見込んで開業した、小さな旅館である。

臨海学校を思い出す庶民的な雰囲気があり、おそらく、ビジネスホテルができる前の時代は、どこの町にも、こんな旅館があったのであろう。

茅ヶ崎館は関東大震災の被害で補修を加えると、近年窓枠をアルミサッシを変えたほかは、ほぼ当時のままの姿で営業を続けている。

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松竹の撮影所が1936年(昭和11年)に、東京の蒲田から神奈川県の大船に移ると、茅ヶ崎館は脚本部が執筆活動に使う定宿となった。

小津監督は1941年(昭和16年)に、『戸田家の兄妹』のロケで訪れた茅ヶ崎館が気に入り、脚本の執筆に利用するようになる。

当時、小津監督は茅ヶ崎が気に入った理由を「人が少なかったから」としている。照れ屋の小津監督は、ロケで野次馬が集まるのを極端に嫌っていたので、荒涼とした海岸線に、漁師の小屋が点在する浮世絵のような情趣と、静かな環境が自分の性格に合うと思ったのであろう。

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戦後、小津監督は映画制作を再開してから10年間、毎年、1年の半分は茅ヶ崎館に滞在して、『晩春』や『麦秋』、『東京物語』といった、戦後の小津映画を代表する名作の脚本を書き上げていた。

小津監督の場合、脚本作りは、あらすじだけではなく、場面の順番や登場人物のセリフを全て手がけていたので、それなりに時間を要していた。

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好みがはっきりしていた小津監督は、茅ヶ崎館の中でも、角部屋の二番が気に入っていて、毎年指定して滞在していた。

二番の部屋は、小津監督の没後50余年経つ現在でも、当時の姿のまま、現役の客室として使われていて、驚くばかりである。

室内の随所には、小津監督が使用した痕跡が残り、当時と同じ隙間風や、ギシギシ音がする廊下を体感できて、ファンにとっては、貴重な文化遺産になっている。

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二番の部屋は8畳間のまわりにテーブル席や出窓、洋服ダンズ、床の間、押し入れが張り出し、窮屈な印象は少ない。室内に洗面台、バス、トイレはなく、館内の共同施設を利用する。

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小津監督が調理をする油で赤く染まった天井

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小津監督が執筆と飲食に使用して輪ジミが残るテーブル
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館内には小津監督がこの輪ジミのテーブルと収まる写真が飾られている

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ネジ式の電灯と小津監督がよりかかるのが好きだった床柱
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洋服ダンスの取っ手
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鏡台
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くずかご
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えもんかけ

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さて、小津監督はこの部屋で何を描こうとしていたのか。照れ屋の小津監督は、自作について多くを語っていない。

唯一語った言葉は「トウフ(豆腐)」である。「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」とか「うまいトウフが作りたい」という発言が残されている。

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小津監督が追い求めた「トウフ」とは、一体何なのか。手がかりを紐解くために、小津監督が茅ヶ崎館から散歩に出かけた場所を訪ねた。

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小津監督の散歩道

(1)南湖院跡

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南湖院は、茅ヶ崎館の創業と同じく1899年(明治32年)、茅ヶ崎駅の開設とともに開業した結核療養所である。当時、結核は不治の病で、治療法は「清浄な空気と栄養食」とされ、海か山の施設に隔離して、安静にしているしかなかった。やがて、南湖院は1908年(明治41年)、敷地が約5万坪に広がると、東洋一の規模と言われるようになった。

戦後の1946年(昭和21年)から1956年(昭和31年)までは、米軍に接収され、戦車隊の施設として使われた。現在は老人ホームとなり、大きな鉄筋コンクリートの建物がたっている。庭の一角には、旧南湖院の建物が1棟だけ保存され、物置として使われている。

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小津監督が南湖院跡を訪れた頃は、米軍に接収されていたので、敷地の中に入ることはできなかった。

このため、小津監督は茅ヶ崎館の従業員に、南湖院で働いていた人を調べてもらい、訪ねて行って、昔の病院の様子や食事の献立などを尋ねている。

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(2)国木田独歩の碑

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明治の文士、国木田独歩は1908年(明治41年)、結核で南湖院に入院すると、4ヶ月後に36歳の若さで亡くなった。

その闘病記と茅ヶ崎館でおこなわれた通夜の様子は、読売新聞に連載され、皮肉にも、茅ヶ崎の名を全国に広めることになった。

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茅ヶ崎公園球場の一角には、当時のことを語り継ぐ石碑が建ち、国木田独歩が「永劫の海に落ちゆく世々代々の人生の流れの一支流が、僕の前に横たはつて居る」と詠んだ『渚』という詩が刻まれている。

文学好きだった小津監督は、国木田独歩の看病や通夜で茅ヶ崎館を利用した文士たちの様子を、館主に尋ねていた。

(3)団十郎別荘跡

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現在の茅ヶ崎市平和町の一帯は、かつて、団十郎山とよばれていたことがある。九代目団十郎が、約1万9800平方メートルという広大な土地に別荘を構えていたからである。交番の隣には、そのことを記す「団十郎山の碑」がある。

九代目団十郎は1896年(明治29年)、それまで稼いだお金をこの地につぎ込み、別荘を建てた。敷地内には弟子達が稽古をする道場や屋形船を浮かべる池も作られた。

大きな庭石用の岩は、重くて運ぶのに時間がかかり、東海道線の線路を横切るには、列車が走らない真夜中に作業をしなけらばならなかった。そのうちの1個が石碑に使われている。別荘は団十郎の死後も維持されたが、関東大震災で壊滅状態となったのを機に手放された。

小津監督はその話を聞いて、跡地を見ようと散歩に出たが、思ったより遠かったので、途中の交番でタクシーを呼んでもらい、現地にたどり着いている。

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(4)川上音二郎・貞奴別荘跡

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立派な松が生い茂る「高砂緑地」とよばれる公園は、明治の芸人、川上音二郎と貞奴夫婦の別荘跡地である。貞奴は日本橋で生まれ、15歳で芳町の芸者になると、伊藤博文によって水揚げされた。

貞奴はその後、芝居役者の川上音二郎と知り合うと意気投合して結婚。貞奴を加えた音二郎一座は欧米に進出すると、1900年(明治33年)のパリ万博の公演で一世を風靡する。着物姿で芝居を演じる貞奴は、パリの上流階級の貴族趣味にうんざりしていた、若手アーティストを刺激して、ジャポニスムブームの火付け役となる。当時の貞奴の人気は、若きピカソに描かれるほどであった。

それから2年後、音二郎と貞奴は帰国すると、団十郎を慕って茅ヶ崎に約3千坪の土地を買い、別荘を建てた。敷地内には、団十郎に倣い道場を作って後進の指導にあたった。貞奴が洋装で自転車を乗る姿は、当時の茅ヶ崎では珍しく、見物人が絶えなかったという。音二郎と貞奴は、度々団十郎の別荘を訪ねて親交が深め、団十郎が亡くなると、弟子と総出で葬儀を手伝った。

小津監督は町の長老を訪ね、こうした芸人の伝説や、別荘の栄枯盛衰を熱心に尋ねていた。

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音二郎の死後、貞奴がこの土地を手放すと、1919年(大正8年)に実業家の原安三郎が購入し、西洋建築の別荘を建てた。戦後はアメリカ軍に接収され、解放された後に老朽化のために取り壊され、洋館の階段のみが残された。

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1984年(昭和59年)、市が敷地を買い上げ、公園として一般に解放して現在に至る。公園の一角では、洋館の階段や川上音二郎・貞奴時代からある石の井戸枠を見ることができる。

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(5)小津監督ゆかりの商店

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現在、茅ヶ崎駅のまわりには、テナントビルやチェーン店が建ち並ぶが、旧街道沿いには、小津監督が散歩をしていた頃の面影が、わずかに残っている。

白井理髪店は、かつて茅ヶ崎館の女将の日本髪を結いに出張サービスをしていたのが縁で茅ヶ崎館に出入りするようになる。小津監督も、毎週火曜日に出張サービスを受け、髪や髭を整えていた。

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東海道に近い古本屋の隣にある工具箱ISIZAKAは、かつて「石坂金物店」と名乗っていて、小津監督はその頃立ち寄って、調理道具を購入している。

全国の美味い物に精通していた小津監督は、茅ヶ崎館の料理に細かく注文を出していた。売り言葉に買い言葉で、館主から「だったら、お部屋で自由に調理されても構いません」と言われた小津監督は、実行に移した。調理に使うの火力は、部屋に常備している火鉢に、七輪を加えていた。

小津監督が部屋で自炊していたメニューは、ベーコンエッグやハンバーグ、トンカツ、天麩羅、カレーライス、すき焼、中華ソバなどで、立ち上る油が天井を染めていった。

調理に興味を持つようになった小津監督は、行きつけのお店でレシピを尋ねては、茅ヶ崎館を訪れる知人に研究成果を披露していた。

小津監督は後のインタビューで監督業について聞かれると「つくったもので、皆さんを楽しませるのが仕事」と答え、調理からの影響が感じられる。

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現在、のれんを下ろしている鮨元は、小津監督が茅ヶ崎館時代に、頻繁に立ち寄ったお店で、日記の中にも度々登場する。

小津監督の好みはトロと熱燗。茅ヶ崎館に来客があると、鮨元から出前を取ることも多かった。赤飯も好きだった小津監督は、鮨元に注文して旅館に取り寄せている。

小津監督は『早春』と『東京暮色』の飲屋街のセットの中に、「すし元」と書かれた赤提灯を下げ、文字も自分で書いていた。タイアップという堅苦しいものではなく、小津監督の好意であった。

小津映画に度々登場する、飲み屋のカウンターで熱燗手酌に語る男と、かっぽう着を着た女将との軽妙なセリフのやり取りは、小津監督自身が、鮨元のような、町角の小さなお店で体験したことをモデルにしたのであろう。

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小津監督は夕方、散歩から旅館に帰ると風呂に入り、晩酌をした後に、昼間調べたことを書きとめ、皆が寝静まった真夜中から明け方にかけて 脚本を書いていた。

翌朝、朝食を食べると昼過ぎまで寝て、昼食はほとんど食べずに、 散歩をくり返す毎日だった。女中がいつ仕事をしているのか、わからなかったのも無理はないのである。

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私が二番の部屋で夕食後、昼間撮影した写真を整理していると、突然、大広間から歓声が響きだした。日帰りの趣味の団体が打ち上げを始めたのである。

静けさを求めて旅館に来たのに、当てが外れ、残念な気分になった。

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すると、「おや?こんな場面どこかで見た事あるな」と思い返していると、小津映画『東京物語』の熱海の場面であることに気がついた。

熱海の旅館に静養に来た笠智衆と東山千栄子演じる老夫婦は、旅館のあちこちから聞こえてくる放歌放談や麻雀の音がうるさくて、なかなか眠れない。思わず、東山千栄子が笠智衆に

「ひどう賑やかですのウ
もう何時ごろでしょうかのウ」

と話しかけるセリフは、小津監督が二番の部屋で体験したことが元になっていると思われた。

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一般大衆の中で、歴史的な事件に巻きまれる人は稀で、多くの人は、日常の些細な出来事に一喜一憂している。小津監督が描く物語は、そんな庶民の日常を題材にしていた。

小津監督は旅館や史跡、商店で体験した些細な出来事や会話を脚本に散りばめ、観客を引き込むことに生かしていた。

そんなことを想っていると、いつの間にか宴会の団体は帰り、あたりは急に静かになった。それはそれで、寂しいものである。

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翌朝の茅ヶ崎館の朝食は、主菜が、焼き魚、ハムのトマト添え、副菜が、カマボコ、タコの酢の物、ゼンマイの煮付け、しらすおろし、これに、味噌汁、お新香、果物が付く。

しらすおろしは、 淡白な味の中に、地元特産の新鮮しらすの旨味と大根のほのかな辛味があり、少し醤油をたらして、そのまま食べるもよし、熱いご飯にかけてもいける。

生卵や納豆パックで家庭の朝食を再現するファミリーレストランやビジネスホテルの朝食とは、ひと味ちがうメニューだ。

これなら小津監督も満足するのではないか。小津監督が利用していた時代は、旅館として客の要望に答えようにも、終戦直後で物資が乏しく、苦肉の策で、自炊を許可していたのであろう。

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談話室の書棚には小津監督や茅ヶ崎ゆかりの本が並ぶ

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談話室の壁には小津映画のポスターやスチール写真も飾られている。この場面は、『晩春』のラストシーンである。原節子演じる嫁入りする娘は結婚式の朝、自宅に美容師を呼んで文金高島田を結い、着付けを済まると、式場に向かう前に、笠智衆演じる父親に三つ指をついて、

「お父さん、今までいろいろ、お世話になりました」

と挨拶すると、笠智衆が

「うん、幸せに、いい奥さんになるんだよ」

と答える。

小津監督が映画の中で、日常の些細な出来事を積み重ねながら描いた「トウフ」とは、「日本人の和」のようなものに感じられた。

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小津監督は1956年(昭和31年)、脚本執筆の場を蓼科の山荘に移してからは、再び茅ヶ崎館に戻ることはなかった。

小津監督はその理由を語っていないが、交通の便の発達で茅ヶ崎は東京から近くなり、茅ヶ崎館二番の部屋は、頻繁に訪れる知人たちの溜まり場となり、近所には宅地開発の波が押し寄せ、創作に集中できなくなったからであろう。

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茅ヶ崎館の裏口から海をのぞむ

小津監督は茅ヶ崎館時代、夜中に原稿を書き上げると、裏口の階段から海岸におりて、夜明けの海を見るのが好きだった。現在同じ場所から海までは住宅で埋まり、海沿いの道路にはファミリーレストランやコンビニエンスストア、ラブホテルなどが建ち並んでいる。

小津映画の世界が残るのは、茅ヶ崎館と、砂浜だけになった。

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