写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda
美術館や博物館では作品のほかに編集や展示方法にも興味があるので、時間があれば先入観を持たずに何でも観ることにしている。時には思わぬ発見もある。南青山にある岡本太郎の自宅兼アトリエだった建物を一般公開している記念館はクリエイターの仕事場というものに興味がわいて立ち寄ってみた。館内を観ているうちに「太陽の塔」のデッサンが目につき、大阪万博のことを思い出した。
1970年(昭和45年)の真夏、父と兄とともに乗ったバスは満員で、乗客はみな汗をぬぐい黙っていた。目的地が近くなったとき、窓際に座っていた女性が「虹の塔が見えた!きれいやナア」と言うと、乗客はみな顔を上げて窓の外を見た。静かだったバスに歓喜のどよめきがおこった。大人たちの合間から見えた「虹の塔」は白黒テレビで見ていた印象よりもはるかに大きく感じられた。
「虹の塔」は大阪万博会場東側入場ゲート近くにあった日本専売公社のパビリオンで
330ヘクタールの会場の一角が見えたにすぎなかった。会場内は116におよぶ斬新なパビリオンが未来都市のように並び、夜のライトアップもきれいだった。各国のパビリオンで配られるパンフレットのモダンなグラフィックも印象に残っている。パビリオンへの入場はどこも長蛇の列だったので、家族会議の結果、アメリカ館の「月の石」をあきらめ、「日本と日本人」をテーマにした日本館だけは行列して、リニアモーターカーの模型を見ることができた。
「人類の進歩と調和」をテーマにした大阪万博のプロジェクトにはイサム・ノグチ、坂倉淳三、前川國男、レンゾ・ピアノ、円谷英二、手塚治虫など、歴史に名を残す
国内外の錚々たるクリエイターが数多くかかわり、183日間の会期中に約6400万人が来場し、マレーネ・デートリッヒのショーで幕を閉じた。当時、作者と作品の名前が一致していたのは大阪万博のテーマ館である岡本太郎の「太陽の塔」だけだった。
その「太陽の塔」デッサンはレポート用紙や小さなメモ用紙などに多数描かれている。完成形に近いものもあれば、全くちがうものもある。それぞれの日付は一年近くに渡っていた。岡本太郎といえば画風の印象からデザインも居合い抜きのように一気に仕上げていると思っていたが、実際には長い時間構想を練って格闘していたことがわかる。突然爆発したわけではないのだ。お茶を飲んでいる時や移動する列車の中などで、ふと思いついたデザインを身近な紙に描いては寝かせ、時々アトリエに並べては吟味していたのであろう。
大阪万博にかかわった他のクリエイターたちも来場する人々に未来の夢をあたえるため、泥臭くてアナログな葛藤をしていたものと思われる。無数のデッサンの展示は様々なことを想像させてくれて興味が尽きなかった。作品はそのものの印象を味わうことはもちろんだが、作品に表れる作者の人間性、思考のプロセスなど、制作の背景を読むことも楽しみのひとつだ。
近年、美術館や博物館の催しは盛況である。人類は大阪万博当時より「進歩」してインターネットで何でもすぐに引用できる時代となったが、実際の作品に接して人間の痕跡をたどりながら、自らも作品を作り出そうとすることで「調和」を図ろうとしている。