知りすぎた男〔3〕

横浜信濃屋の歴史について〔3〕

自分(白井氏)がアルバイトで初めて信濃屋で働いた1955年(昭和30年頃)は当然の事ながら、まだ貿易の自由化が認められておらず、船舶品として店頭に並べられたものと云えば、全てアメリカ製品、米軍のP.X.(Post Exchange)流れの品が殆どという時代であった。

“ロンソン”のガスライター、“パーカー”、“シェーファー”の万年筆(ボールペンは重い)、婦人の化粧品“マックスファクター”のコンパクト、“レブロン”のマニキュア、“ポンズ”のクリーム、“ジャーゲンズ”の乳液、紳士用では“オールドスパイス”、
“キングスメン”、“メケン”、といったアフターシェイブローション類、安全カミソリの“ジレット(両刃)”、“バレー(片刃)”等。

衣類では“カリフォルニアン”のスェードジャンパー(キャメル色、オリーブ色の2色)。シャツの“アロー”、“バンヒューゼン”。海水着の“ジャンセン”、“キャタリナ(紳士婦人用共)”。海水着で思い出したが“カパートーン”のサンタンクリーム、クイックタンニング。

少し後(58、59年頃?)になり、初めて見る透明のビニール袋に入った“Grand Slam”と大きく表示された“ペンギンマーク”のマンシングウェアのポロシャツ。

“B.V.D.”、“ステッドマン”のアンダーウェアー。今まで見たこともなかったショキングピンク色のキレイな薄い箱に入った“スキャパレリー”のパンティストッキング。プライスははっきり憶えていないが、相当高価なものだった記憶がある。とにかく、雑貨類が圧倒的に多かった。

英国物“バーバリー”の綿コート。“スワロー”のライニングにキルティングが施してある厚手ギャバディンのウールコート等が入ってきたが、それらは既にお客様(特別顧客)への行先が入荷前から決まっていたようだ。

その後、海外との貿易が自由化となり英国を始めとするヨーロッパからの輸入が始まる。

デンツ(英)のペッカリー手袋、フォックス(英)の傘等。“ダンヒル”のオイルライター、ガスライター、パイプ類。“モンブラン”、“ペリカン”の万年筆、“ロンシャン”の喫煙関連の小物。“レッドウォール”の傘立て、屑入れ、小物で名刺入れ、写真入れ、ペンケース等々。ウールバンド(シンチと呼ばれる馬の腹帯)を使った雑貨類。

また、ハンドバッグでは豚革にその「シンチ」や「ビット」をあしらった“グッチ”。綺麗な斑のベビークロコが美しいフランスの“P.J.ゲネ”、ドイツの“コンテッサ”。素晴らしいカーフのスペインの“ロウエ”(当時はロエベと云う難しい発音が分からず‘ロウエ’と呼んでいた)。

そう言えば戦後間もない頃、ブルージーンズの“Levis”を‘レヴィ’と呼んでいたのだから今から考えると可笑しい。

オーストリーの“ダニエルスワロフスキー”は何故かブローチだけあった。メンズでは、英国製のネクタイ“セイヤー&セイヤー”、“ビヴァクス”、“ヒューパーソンズ”、“ミッチェルソン”、アイリッシュポプリンの“アトキンソン”、ウールタイの“クランスマン”、タータンチェックが得意(?)の“マンロースパン”等、その殆どが英国製だった。米国製の物はカフリンクス、ベルトの“ヒコック”。カフリンクスタイクリップの“スワンク”。14KG張りのカフリンクス、スタッズ等の“クレメンツ”。ベルト、ガーターのパリス、英国製ではカフリンスセットの他に婦人コンパクトケース携帯用櫛などがあった。

“スケトラン”、“ケント”の洋服ブラシ、ヘアーブラシ、歯ブラシ、櫛等。“ジョン・スメドレー”のアンダーウェア。“メリディアン”のアンダーウェア。“J・スメドレー”はウールが主で、“メリディアン”はエジプト綿。後になり前者はシーアイランドコットン(海島綿)を多く使用するようになった。“P.デレクローズ”のパジャマは秀逸。他に“ベルテックス”のもの(伊)は“D.ローズ”に比べ、倍以上のプライスだった。

他に英国製のものでは圧倒的にカシミアニットが多く、“バレンタイン”を始めとし、“プリングル”、“ライル&スコット”、“ブレイマー”、“マックジョージ”、“バリー”、“グレンマック”、“ジョンストンオブエルギン”、“ウィリアムロッキー”等々。イタリー製の代表格は何と言ってもアルパカ/カシミアの“バクサー”。ハイゲージで繊細な“アボンチェリ”。薄手アルパカニットの“アランペイン(英)”。リバーシブルのスリップオーバーが素晴らしかった。

今ではもう作れないのか?