アメリカの思い出「1980年代」

AKAMINE’S MEMORY OF AMERICA IN 80S

文/赤峰幸生 Essay by Yukio Akamine
写真/織田城司 Photo by George Oda

【 自分の服を売りに行ったアメリカ 】

アメリカ物の魅力は服のほかに、大衆向けにわかりやすく作られた広告やパッケージに優れたものがあった。単に商品を告知するだけではなく、大衆を楽しませようという文化がある。

こうしたグラフィックを紹介する本を国内外で買い集め、商品につけるラベルや店頭プロモーションを考える時の参考にした。

黄色いシールをはった本は全てアメリカ関係の本で、中でも愛着あるのが『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』(西尾忠久著 上写真の56番)

フォルクスワーゲンのアメリカ支社が、宣伝のために使ったアメリカの広告代理店、DDB社が制作したワーゲンの広告を日本語で解説する本である。

ユーモアとひねりのきいたシンプルなメッセージの仕掛けが面白くて、ボロボロになるまで何度も読んで参考にした。

『フォルクスワーゲンの広告キャンペーン』より

 

服づくりは80年代になると、できあえの輸入品を売るだけでは満足できなくなり、「GLENOVER 」という自前のブランドを立ち上げた。

ブランドの由来は、けわしい谷を越えていく、という意味の英語をくっつけた造語で、アメリカの伝統服を日本人の包丁さばきで作った。

単にアメリカ物をそっくりコピーするのではなく、アメリカ物の格好よさや、使い勝手のよさを残しながら長く愛着持って着られるしっかりした服を作るために、日本の生地産地で開発したオリジナルの素材や真面目で丁寧な仕事をする縫製工場を使った。

当然値段は高くなったが、妥協したくなかったので自分で売り込みに行き、百貨店や専門店でお取り扱いいただいた。

国内の展開が一段落すると、自分が作った服を憧れの地、アメリカの小売店で販売してもらおうと思い、商品をスーツケースにつめて売り込みに行った。いわば他流試合を申し込みに行ったわけだ。

何度か通っているうちにニューヨークの「バーニーズ」から、日本人でありながらアメリカの味がよくわかっているという評価を受け、商品を扱ってくれることになった。

当時の「バーニーズ」の社長ジーン・プレスマンや、バイヤーのマイケル・シュライヤーに気に入ってもらい、現地の雑誌「GQ」の見開きページを使って商品を紹介してくれた。

アメリカでの評判も徐々に広がり、「バーニーズ」のほかにも「ポール・スチュワート」や、ボストンの「ルイス」という専門店でも商品を扱ってもらうようになった。

バイヤーが日本に来て発注することもあった。バイヤーはオフィスのハンガーラックに陳列した新作サンプルを離れて見ながら瞬時に構成を理解し、目ぼしをつけた服を試着して、発注書をきって、発注した分の織ネームをドンと置いて帰っていく。その間わずか20分。本場のプロの仕事は早かった。

商品をアメリカに輸出するようになってからは、「GLENOVER」のブランドネームにTOKYOとNEW YORKを入れた。

日本人が手がけた洋服を、洋服の先進国で展開することは、今でこそ頻繁に見られるようになったが、当時は前人未到の領域だった。

スポーツでも服でも、前人未到に挑戦する気概がないと進歩しない。その原動力は、つねに夢を持つことだと思っている。

その当時、アメリカに輸出していたGLENOVERの商品の一部が、この3着です。

アメリカに通っているうちに、アメリカの上流階級が身につけるものは英国製であることに気がついた。

歴史や文化を研究して、アメリカのお兄さんはイギリスであることを知って、ロンドンに行って紳士服の源流を学び、パリやミラノへも足をのばしていった。

ヨーロッパの歴史と伝統を背景にした物づくりは奥が深く、それ以来、毎年のように通っている。