鳥料理 江戸清

CHICKEN RESTAURANT EDOSEI NIHONBASHI,TOKYO

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

全国的に有名ではないが、地域の人々に親しまれている料理屋がある。

日本橋の小伝馬町と馬喰町の間にある鳥料理の「江戸清」も、そのような店であった。この界隈に通うようになって二十余年、月に何回かは必ずこの店に昼食を食べに行っていた。

十月になったばかりのある日、いつものように昼食を食べに行くと、シャッターがおりていて、「永い間大変ありがとうございました九月末で閉店致しました 店主」と、毛筆でしたためた紙が貼られていた。

もとより「江戸清」は、大衆向けの焼き鳥屋というより、上質な鶏肉を使った「うまいもの」を出す店で知られ、特別な日に利用する店だった。それでも昼は、手の届く値段の定食を出していたので、いつも混雑していた。。

昼の定食は一品のみで、鶏肉の蒸し焼を、ご飯とスープとともに出す。ただそれだけなのだが、実にうまかった。

カウンターのほかに数席しかない店内は、目の前の料理人が調理した出来たてを食べる、小さな店ならではの醍醐味があった。

調理場には、白衣を着たベテラン料理人が三人いて、いつもせわしなく動いていた。

真ん中で黙々とフライパンをふるう背の高い料理人が、鶏肉のかたまりをフライパンに入れると、ジューという音とともに、香ばしい臭いがたちこめる。フタをして鶏肉を蒸しながらゴソゴソとフライパンをゆすり、時々「ヨッ!」と声をかけて、太い菜箸で肉の向きをかえ、キツネ色になると、つまみ上げてまな板の上に置く。すかさず、左の料理人が湯気のたつ鶏肉を布でおさえながら切りわけ、あらかじめ炒めておいたネギとともに皿に盛り、タレと七味唐辛子をかける。そのタイミングを見計らって右の料理人が鳥のスープをよそる。

一連の動きは「江戸の職人たちは、こんな雰囲気だったのかもしれない」と思わせ、
出来あがりを待つ時間も楽しめて、料理がよりおいしく感じられた。

朝、馬喰町の駅で背の高い料理人が、ジャンパーのポケットに手を突っ込んで階段をのぼる姿を見かけると、「今日の昼は、鳥にしようかな」と思ったものだ。

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昼の定食

焦げ目がつくかつかないかの火加減で焼き上げた鶏肉は、やわらかくて脂っこくなく、ネギの輪切りは、とろみと甘みがあった。旨味が凝縮した鶏肉とネギを、しなやかでコクのある醤油味のタレとからめていただく味は、飽きがこなくて、ご飯とよく合った。器が持てないぐらい熱い鳥のスープは、せわしなく働く商人の街の舌にあわせて、しょっぱ目であった。

客たちは、黙々と一気にたいらげ、ものの十分で出て行く。いかにも江戸前の今を感じさせる風情であった。

昼はこの一品だけなので、お品書きはない。店の引き戸をガラリと開けると料理人たちは、ちらりと人数を確認するだけで注文を取らない。客も注文しない。黙って座ると、黙って出す。それが、この店の流儀であった。

この界隈は、東京大空襲で焼け野原となり、戦争が終わると、皆バラックからやり直し、高度成長時代になると、少しましな建物をたてた。おそらく「江戸清」もこの流れであろう。

内装は江戸の屋台風で、調度類には昭和レトロの面影も残していた。昭和三十年代に、かつての店主が祝賀会に屋台を出して、皇太子殿下(現在の天皇陛下)に焼き鳥を献上した時の白黒写真が飾ってあった。ゆがんだアルマイト製の灰皿など、買い替えればいくらもしない物を後生大事に使い続けていた。口数の少ない料理人たちにかわり、トランジスタラジオからAM放送の歌謡曲が乾いた音で流れていた。昭和から時間が止まったかのような空間も楽しみだった。

この界隈で戦後開業した店の料理人は、サラリーマンならとっくに定年になる歳を超えても頑張っていたが、さすがに体力の限界を感じ、相次いで自主廃業していった。跡地にはワンルームマンションやコンビニエンスストアが建った。

「江戸清」にも後継者はいなかった。「この店も、そのうち閉店してしまうかもしれない」と、思っていたことが、突如現実になってしまった。

あらかじめ告知をすると、客が殺到して、味とサービス落ちるから、黙って消える。それが、この店の幕引きであった。

永い間「うまいもの」をいただいたことに感謝しつつ、黙々と味を守り続けた料理人たちのことを脳裏に刻んでおきたい。