名画周遊:湯河原

Trip To Movie Locations : Yugawara, Kanagawa Prefecture
写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

 

映画のロケ地をめぐる旅の連載コラム『名画周遊』

今回は古くから温泉郷として栄えた神奈川県の湯河原で、文士や映画監督ゆかりの地を訪ね、創作の背景をめぐります。

湯河原駅

伊豆の山々の玄関

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湯河原駅ホームの西端にて。右は熱海から来た上りの踊り子号

2月は立春を過ぎても朝晩は真冬の寒さが続く。冬の旅といえば、温泉旅館が人気だ。明治から昭和の時代の温泉旅館は、観光客だけでなく、作家が創作する場でもあった。

湯河原は山間にあり、華やかな行楽地とちがい、閑静で落ち着いた雰囲気があることから、文士や映画監督に利用されてきた。

1953年(昭和28年)、木下恵介監督は映画『日本の悲劇』を公開する。戦後の混乱期を生き抜くために温泉旅館の女中として働く母親と子供たちの葛藤を描く物語で、ラスト近くに湯河原駅が映る。

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湯河原駅構内の装飾

湯河原駅の場面は、熱海から来る上り列車をホームの西端で捉えている。最初は小さく見えていた列車がカーブを描きながら次第に大きくなって近づく演出には迫力と緊張感がある。

木下監督は熱海や湯河原の温泉旅館でシナリオを書くことが多かった。土地勘があったので、凝ったアングルのロケ地のアイデアには事欠かなかったのであろう。

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湯河原駅前
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湯河原駅前
バージョン 2
湯河原駅前

峠に続く街道

魚自慢の食事処

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「魚繁」の外観

湯河原の名物のひとつに、伊豆半島の豊富な漁場を背景にした魚料理がある。駅前には干物やカマボコなどの水産加工品を販売する店が軒を連ね、峠に続く街道には、温泉旅館の合間に、魚自慢の食事処が点在している。

「魚繁」は戦前からある地元の魚屋が、20年ほど前に2階の座敷で始めた魚料理屋である。「魚屋がやってる魚が旨い店」という、分かりやすさが人気で、平日の夜でも観光客がやってくる。

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「魚繁」の店内
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「魚繁」のイクラ丼(部分)
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寿司屋「鮨秀」の外観

寿司屋「鮨秀」の店内には、主人が色鉛筆で丁寧に描いた魚の絵が随所に飾られ、魚への愛着が感じられる。

主人は戦後間もなく中学を卒業すると、寿司職人になるべく、福島県から集団就職で上京したそうだ。最初の赴任地千葉県では、見たこともない色の鳥が飛んでいて、南国かと思ったという。やがて、浅草などを転々として修行を積み、1968年(昭和43年)に独立して湯河原に出店した。当時の湯河原は高度成長時代のレジャーブームで観光客が多く、店も繁盛したけれど、今は閑古鳥だという。

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「鮨秀」の店内。主人が描いた魚の絵

店内では、つまみを少し頼んでから、地魚にぎりを注文した。地魚の品揃えはその日の水揚げによって変わるそうだ。どれも脂が乗って、しっかりした歯ごたえと豊かな風味があり、その日の旬を味わっている感じがする。

夜の客は私一人であったが、主人は忙しそうに大きな寿司桶の大量発注をこなしていた。納品先を訊いたところ町内のお通夜だという。観光客は減ったけれども、地元には高齢者が多く、お通夜用の注文が増えているそうだ。

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「鮨秀」の店内
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「鮨秀」の地魚にぎり。ネタはその日の水揚げで変わる。この日は上段左からエボダイ、オナガダイ、ヒラメ、イサキ、マトウダイ、下段左からイシダイ、シロダイ、ホウボウ、カワハギ、トビウオ

奥湯河原

人里離れた旅館

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加満田旅館の入り口

峠に近い奥湯河原まで来ると旅館や民家は少なくなり、木々が生い茂っている。加満田旅館はこの地で1939年(昭和14年)に開業。戦後は作家や財界人が長期滞在するようになった。

旅館は街道から脇道を100mほど入った場所にあるので、車やバイクの音はほとんど聞こえない。部屋と部屋の距離も開いているので、離れにいるような静けさだ。付近にはハイキングコースがたくさんあって散歩道には事欠かない。こうした環境が長期滞在に向いていたのであろう。滞在客は旅館の人々との交流も楽しみにしていたことがうかがえる。

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加満田旅館の館内。小林秀雄が宿泊した時の記念写真と全集
萩の間
小林秀雄が命名した客室名「萩」のキーホルダー
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加満田旅館の館内。宇野千代の色紙
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加満田旅館の館内。水上勉の色紙。映画化された小説『飢餓海峡』はこの旅館で執筆された。
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加満田旅館の館内。本田宗一郎の書簡
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加満田旅館朝食の一例(部分)
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加満田旅館朝食の一例(部分)
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加満田旅館室内の一例

温泉場中央

明治文士が描いた情景

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街道の土産物屋

街道の中腹にある温泉場の周りには大きな旅館が多く、明治の文士が滞在した。夏目漱石は大正時代に二度ほど湯河原を訪れ、絶筆となった『明暗』を手がけている。

夏目漱石が滞在した旅館、天野屋は現在廃業して本館の跡地は町立湯河原美術館になっている。美術館の広さから天野屋旅館は大きな旅館だったことがうかがえる。

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町立湯河原美術館

天野屋旅館と川を隔てた向かいに、かつて中西屋旅館という大きな旅館があり、大正時代に芥川龍之介が滞在した。

芥川龍之介が中西屋旅館に通っていた頃は鉄道が開通していなかったので、小田原と熱海間を運行していた人車鉄道を使っていた。人車鉄道とは、人力車の鉄道版のようなもので、レールの上に乗せた小さな車両を人が押して動かしていた。

芥川龍之介は当時の経験をもとに、人車鉄道から鉄道に移行する改修工事の情景を描いた『トロッコ』という作品を残している。工事現場のトロッコに乗ることに憧れていた少年は、いざ工事人夫に乗せてもらうと、トロッコが街から離れるにつれて心細くなる物語で、幼ごころに憧れと現実の落差を感じた悲哀を描いている。

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人車鉄道の写真。鉄道が開通するまで小田原と熱海間を運行した

湯河原に文士が集まり始めた背景には、国木田独歩の影響があるといわれている。

国木田独歩は1901年(明治34年)から1907年(明治40年)にかけて3回ほど中西屋旅館に滞在している。その時の体験をもとに、日常の些細な出来事の中に無常観を見る作品をいくつか残した。

『都の友へ、B生より』という作品は、湯河原の釣り場で知り合った老人が、翌年来ると亡くなったことを知らされ、悲しさのあまり、一人で山の中に入って号泣する物語である。いくら旅館の生活が孤独にせよ、号泣する展開は少々大げさに感じられる。

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温泉街を流れる渓流

そもそも、国木田独歩が湯河原に来るようになったのは執筆のためではなく、肺結核の治療で薦められたからであった。当時は肺結核は不治の病とされ、空気のきれいなところで療養することが、少しでも寿命を延ばすこととされていた。このため、国木田独歩は老人の死に接して、自分の死も近いことを思い出し、急に悲しくなったのではなかろうか。

国木田独歩はこの作品を発表してから1年も経たないうちに肺結核が悪化して、36歳の若さで亡くなった。国木田独歩の夭折は、当時の文壇にショックを与え、国木田独歩の作風や湯河原が注目されるようになった。

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街道の土産物屋

小津安二郎監督は湯河原に滞在する時は中西屋旅館を選んでいた。時には、志賀直哉と合流して、駅の方まで散歩に出かけることもあった。

小津安二郎監督は1953年(昭和28年)2月4日、中西屋旅館に宿泊した日の日記に「東京物語のあらましのストウリー出来る」と記している。この後、茅ヶ崎館に移ってシナリオを完成させ、同年11月に映画『東京物語』を公開した。名作の構想は湯河原で練られていた。

1958年(昭和33年)の春先にも、2ヶ月ほど中西屋旅館に滞在して映画『彼岸花』のシナリオを書き、同年9月に公開している。小津安二郎監督が日常の些細な出来事を積み重ねて無常観を描く作風は、湯河原に集った文士たちの影響が感じられた。

その後、中西屋旅館は廃業して更地となった。跡地を訪問した時は、近隣のリゾートマンションを建設する会社の仮設事務所が建っていた。明治の文士や小津安二郎監督が闊歩した面影はなく、彼らが描いた無常観を思った。

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往年の中西屋旅館
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中西屋旅館の跡地。橋を渡った先が旅館があった場所で欄干には中西のプレートが残る。2016年1月に訪問した時は、近隣のリゾートマンションを建設する会社の仮設事務所が建っていた。
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中西屋旅館跡地から駅に下る街道
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中西屋旅館跡地から駅に下る街道
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湯河原の駅前と真鶴半島を望む