名画周遊:八丁堀

TRIP TO MOVIE LOCATIONS
HATTYOUBORI,TOKYO

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

八丁堀の亀島橋から対岸の月島のタワーマンションをのぞむ KAMEJIMA-BASHI BRIDGE

東京駅から南に歩くと、時代劇の「八丁堀の旦那」のセリフで聞き覚えのある八丁堀の街に出る。

八丁堀は江戸時代にあった運河の名前が地名の由来で、当時、この界隈は幕府のおひざ元として、与力や同心が暮らす街、いわゆる警察官舎の街として栄えたことがセリフの背景である。

さらに南下した「湊(みなと)」と名が付く湾岸の町は、東京大空襲の被害をまぬがれたことから、戦前の古い建物が点在する。

鉄砲洲稲荷神社 TEPPOZU INARI SHRINE

湊地区にある鉄砲洲稲荷神社の鉄砲洲とは、江戸幕府が鉄砲の演習に使っていたことが地名の由来だ。

神社の創建は平安時代と古く、歌川広重の浮世絵シリーズ『名所江戸百景』にも登場する。境内には、1935年(昭和10年)に建て替えられた建物が現存する。

永井荷風は1934年(昭和9年)6月26日の日記に、鉄砲洲稲荷神社から夜の散歩に出かけたことを記している。

「歌舞伎座前より乗合自動車に乗り鉄砲洲稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀なる物揚波止場に至り石に腰かけて明月を観る。石川島の工場には燈火煌々(こうこう)と輝き業務繁栄の様子なり。水上には豆州大島行の汽船二三艇うかびたり。波止場の上には月を見て打語らう男女二三人あり。岸につなぎたる荷船には頻に浪花節かたる船頭の声す。」

と、ある。

寂しい夜の海岸で、工場や船の音に人の気配を感じて安堵した様子が描かれている。

小津安二郎監督は太平洋戦争から帰還すると休む間もなく、復帰作第一弾『長屋紳士録』(1947年・昭和22年作)の制作に取りかかった。

当時の東京は一面焼け野原で、わずかに長屋が焼け残っていた湊地区をロケ地に選んでいる。閑散とした長屋を背景に干した布団が映る場面には、復興にむかう人々の活力が感じられる。

戦前の長屋の面影を探して湊地区を歩いていると、歯抜けになった長屋の奇観に遭遇した。バブルの爪痕である。昭和の終わりごろ急速に発達した経済は、泡のようにすぐ消えてしまったことから、後にバブル経済と呼ばれる。

当時は湾岸地区の開発が話題になり、国際展示場や遊園地、ショッピングセンター、ディスコなどの商業施設が相次いで開業して、タワーマンションの建築ラッシュに湧いた。当時の若者風俗を描いた映画『湾岸道路』(東陽一監督1984年・昭和59年作)も公開された。

湾岸地区のマンション用地を手荒な手法で確保する地上げ屋は、湊地区にも押し寄せたが、突如経済が破たんすると、歯抜けになった長屋だけが取り残された。

豆腐屋「双葉」 TOFU SHOP “FUTABA”

閑散とした長屋の合間で、ひときわ人間味を感じる豆腐屋は、人形町の老舗豆腐屋「双葉」を実家とする親戚筋にあたる。昼時分は、豆腐屋の隣で定食屋を開いていた。

「肉豆腐定食」の肉豆腐は、焼き豆腐のにが味のある焦げ目の中から、甘くてあっさりした煮汁がしみ出す。付け合せは、厚揚げの煮物と冷奴。味噌汁の具は、わかめと絹ごし。ボリューム感がありながら低カロリーの豆腐づくしである。

豆腐という淡白な素材を多彩な食感で楽しませる専業らしい技を使いながら、お袋の味でまとめていて、気取りがない。店内はオフィス街から自転車でやってくる人々でにぎわっていた。

地下鉄八丁堀駅に近い亀島橋のたもとに、松尾芭蕉が1693年(元禄6年)に八丁堀で詠んだ句「菊の花 咲くや石屋の 石の間い(いしのあい)」の句碑がある。

当時の八丁堀界隈は水運の便がよいことから重たい荷物を扱う業者が集まり、石材店も多かった。芭蕉は殺風景な石材店で、石の間から顔を出す花の生命力に感動した一瞬を句にしている。

2013年の暮れ、東京都は湊地区にタワーマンションを建てる計画を発表した。バブル経済の崩壊で中断していた計画が再開することになり、今年の夏から工事が始まる。

かつて文人墨客たちに描かれた町は、未来都市のようなシンプルでモダンな空間に生まれ変わる。

東京大空襲で焼け残り、歯抜けになりながら東日本大震災や風雪に耐えてきた長屋は、間もなく姿を消す。