名画周遊:亀戸

TRIP TO MOVIE LOCATIONS
KAMEIDO,TOKYO

写真・文/織田城司 Photo & Essay by George Oda

隅田川周辺は、古くから水運の利を生かして商工業が栄え、職人や商人がたくさん住んでいた。

こうした人々の人間模様や風物は、同じく下町で暮らした浮世絵師や小説家、映画作家たちによって活写されてきた。

映画『飢餓海峡』(内田吐夢監督1965年・昭和40年作)に登場する左幸子演じる娼婦は、青森県の大湊から東京に出稼ぎに来ると、訳があって華やかで稼ぎの良い吉原や新宿をさけ、人目をしのぶように亀戸の私娼窟に潜む設定になっていた。

物語は1947年(昭和22年)から1957年(昭和32年)まで、戦後の混乱期を背景に、娼婦と殺人犯の足取りを追う。

フィクションだが、事件でもないと報道されないような町の選び方は日常に潜む狂気を浮き彫りにするようで、作品全体のスリルを高めている。

当時の亀戸には工場がたくさんあり、朝鮮戦争の特需からフル操業であった。町中には常に排煙がたちこめ、歩いているだけで鼻の穴が真っ黒になったという。通りは工員であふれ、商店街が栄えていた。

亀戸天神社 Kameido Tenjin Shrine

亀戸を代表する名所は亀戸天神社である。学問の神様、菅原道真公をまつる九州の太宰府天満宮が東の拠点として1661年(寛文元年)に創建された。

境内は太宰府天満宮を模して池や太鼓橋などがつくられた。三つある橋は過去、現在、未来の三世に渡る念を表し、三つ渡ると願い事の念が強くなるとされている。

いざ太鼓橋の前まで来ると、そびえたつ急勾配に、一瞬不安になるが、ふだんは修業に無縁なので、これぐらい挑戦しておかなければ、と気を取り直して橋を登る。

橋の頂上からは藤や梅の木々が眼下に広がり、隠れていた本殿がよく見える。たかが数メートルだが、かなり高く登った気がして、ご利益がありそうな気分になった。

季節の催事は、梅、藤、菊の花祭りに加え、1月24日、25日には「うそ替え神事」
という祭礼がおこなわれる。

「うそ」というスズメ科の鳥は幸福を招く鳥とされ、木彫りの「うそ」のお守りを新しいものに替えるとそれまでの悪いことが嘘になる、という信仰にもとづく。

映画『飢餓海峡』の中でも、沢村貞子演じる亀戸遊郭のおかみさんが左幸子演じる娼婦たちを亀戸天神の「うそ替え神事」に連れて行く場面が描かれている。

亀戸はむかし亀ノ島とよばれる海上の島だったことが地名の由来だそうだ。池には地名にちなんで亀がたくさんいる。

亀は池から島にはい上がっては、他の亀を池に落とすことをくり返している。人間社会の椅子取りゲームのようで、見ていて飽きない。

亀戸天神社は広重や北斎の浮世絵にも登場する。境内の設備は部分的に改修されてはいるものの遠目から見た景色ほとんど当時のままで、浮世絵の情緒が残る珍しい場所といえる。

かつて江戸町民も楽しんだであろう太鼓橋や池の面白さを追体験できる歴史ロマンは、昨今できたテーマパークにはない魅力だ。

船橋屋 Japanese Sweets Funabashiya

船橋屋は亀戸天神社の人出の多さに当て込んで、隣接する場所で創業した甘味処である。

創業者が千葉県船橋の出身だったことが屋号の由来で、いわば「ふなっしー」なのだが、江戸の頃より庶民に愛された名物くず餅の開発と継承は生きた歴史文化財といえる。

明治の文豪たちは小説の中に、亀戸名物くず餅を食べる場面を描いた。

映画では小津安二郎監督が『お早う』(1959年・昭和34年作)の中で、出勤前のサラリーマンを演じる竹田法一が夫人に「今日は亀戸のほうに行くけど、くず餅を買って帰ろうか」と訊くと、高橋とよ演じる夫人が「そうね。買って来てよ。ああいいお天気ね」と答える場面を挿入している。

明治生まれの祖母は、誰それの合格祈願だからと亀戸に行って、お土産にくず餅を買って帰るのだが、あまりご利益がなかったところを見ると、はじめからくず餅目当てだったのであろう。

久しぶりにいただくくず餅は、微糖に慣れた口には、強烈な甘さに感じる。甘いも、辛いもちょっと強めが江戸前の伝統なのであろう。

やき鳥専門店 鳥雅 Yakitori Restaurant Torimasa

横丁のせまい路地には庶民向けの飲食店が広がり、餃子やモツ焼きの専門店が多い。

焼き鳥屋、おでん屋、カラオケスナックといった純和風の飲食店は、昭和の終わりとともに消えていった。

界隈の中でも「鳥雅」は昭和の時代から続く数少ないお店だ。「たまには美味いものが食べたい」という客層に向けて質で勝負してきた。カウンターと2階の座敷のみの店内は、すぐに常連客でいっぱいになる。

常連客は地元の商店主や町工場の社長が部下を連れて来るケースが多い。部下も出世すると先輩に教えられたように部下を連れて来るので、派手な店構えは必要ないのであろう。

焼き鳥は定番アイテムのほかに、独自に創作したメニューも豊富だ。江戸の頃からの梅の名所、亀戸にちなんだ梅を使った料理や絵皿を用意して、ご当地色を感じさせる演出にも気配りがなされている。

鶏肉にしその葉を巻き込んだ「しそ巻」
シシトウに鶏肉を詰めた「はさみ」
つくねにしその葉のみじん切りを入れた「たたき」
玉ネギに鶏肉を詰めた「タイコ」
赤と白の梅をひき肉に和えたもの「梅あえ」
手羽先に餃子の具を入れた「鳥ギョーザ」

亀戸梅屋敷跡 Old Plum Garden at Kameido

亀戸を梅の名所として有名にした亀戸梅屋敷は、現在、駅の近くの観光案内所に名を残すが、かつて広重が浮世絵に描いた亀戸梅屋敷は天神裏にあり、明治時代におきた洪水で梅が全滅して廃園になっていた。

広重が描いた梅屋敷は、曲がりくねった梅の幹を前面に配置した大胆な構図で、後の画家や映像作家に影響を与えた傑作として知られている。1887年(明治20年)、ジャポニズムにわくパリ画壇で、ゴッホは広重の亀戸梅屋敷を模写している。広重やゴッホが描いた梅屋敷の跡地を見ようと天神裏に向かった。

天神裏は『飢餓海峡』に出てくる亀戸遊郭があった地区で戦後の混乱期は、私娼館や連れ込み旅館などが50件ほどあった。主な利用客は地元の商店や工場で働く安月給の若い世代が中心だったという。

やがて1958年(昭和33年)に売春防止法が施行されると、亀戸遊郭も廃業に追い込まれ、跡地は住宅地になり、貧困の中で懸命に生きた人たちの痕跡は残っていない。

遊郭を題材にした小説を多数残した永井荷風は、売春防止法が施行されると、ご丁寧に「本当にやっている店はない」ことを確認するために亀戸遊郭跡地を訪れ、日記に「売色の女来らざるため怪し気なる旅館いづれも休業せり」と記し、翌年、遊女たちを追うように亡くなった。

町にたくさんあった工場も次々と海外に移転して、跡地にはマンションやショッピングモールができた。

地図をたよりに梅屋敷跡にたどり着く。石碑がガードレールにへばりついているので、うっかりすると、通りすぎてしまう。

ゴッホが広重の浮世絵を模写しながら、「一体ここは、日本のどこなのだろう」と夢見た梅屋敷の跡地は、タクシー会社になっていた。

タクシー会社の近くには、梅ならぬ彼岸花が咲いていた。小津安二郎監督の映画に『彼岸花』(1958年・昭和33年作)という作品がある。

長女の嫁入りで離散する家族を描く物語で、はかない運命の象徴として彼岸花がタイトルに使われている。映画の中に彼岸花そのものは登場しない。